木曾の産物の獣の皮の一片を買込んで、うまく額のところをごまかし、余れる毛を器用に取結んで、どうやら昔の道庵並みに返り、ちょっと見たところでは、誰が見ても、細工のほどには気がつきません。
歓迎、招待、日もこれ足らざる名古屋城下にあっては、一切、この仮髪《かつら》で押し通して、誰にも怪しまれることがなく、それに夜分、宿へ帰って寝る時だけが、少々黒ずんだ顱頂部を現わすだけのことです。この分では、道中、相当にかくし了《おお》せて、京都へ着く時分には、地髪で通れるようになるだろう。
かくて道庵は、八枚肩の駕籠《かご》に乗って、蒲焼町を指して乗込みました。
今日の会合は、名古屋城下の医者たちを主とし、医学生その他有志の者が、道庵先生のまじめな講演を聞きたいという希望から起ったことで、当日は参考品として、浅井氏が集めた東西の博物館を開くはずですから、それを見物せんがために集まる者も多くありました。
それが自然、こんど江戸から来たエライ先生、珍しい先生の講演をも聞いて行こうという気になったものですから、さしもに広い講堂は、立錐《りっすい》の余地もないほどの聴衆で埋まるという盛況です。
この景気を見ると、道庵がまた、すっかり上ってしまいました。自分の説を聴かんがために、これだけの聴衆が集まるということは、自分ながら予想外の人気だと、喜んでしまって、辞することなく演壇に上りました。
道庵は今まで、かく多数の人の前で、改まって講演ということをした経験はないが、演説は随分やったことがあるのです。その一例として、貧窮組の時などを御覧なさい、お粥《かゆ》の材料をのせた荷車の上で、盛んなる大道演説をやって、貧窮組をやんやと言わせたことがあります。
そこで演説ということには、先生、なかなか自信があるのです――この時代、多数の人の前に立って、演説をやるというようなことは、非常な新しい頭を持った者でなければできないことでした。
万延元年(この小説の時代より五六年前)幕府が、新見豊前守を正使とし、村垣淡路守を副使とし、小栗上野介《おぐりこうずけのすけ》を監察として、第一回の遣米使節を派遣した時、コンゲルス(議事堂)を見た「村垣日記」のうちに、
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「其中に一人立ちて大音声《だいおんじやう》に罵《ののし》り、手真似《てまね》などして狂人の如し」
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