ちまで引いて行くのだエ」
「あ、どこだか知らねえが……」
「行く先がわからないのかエ」
「所番地はちゃんと聞いておかなかったんだが、その一軒のところはヤシの家だ」
「ヤシ?」
「うむ」
「ヤシって何だろう」
「生き物に芸を仕込んで、見世物にしようというところなんだ」
「ははあ、香具師《やし》かエ……」
「うむ」
「そうして、そのめざす相手の香具師というのは、名古屋の何というところの、何という人?」
「それはわからねえ、ただ、香具師のところへ……香具師に少し、こっちも頼みてえことがあるのでね」
「名古屋も広いね、香具師だって、一人や二人じゃあるまい」
「うむ」
「まあ、いいさ、そのうちには何とか手蔓《てづる》があってわかるだろう、都合によっては、わたしの方で当りがつくかも知れない」
とお角が言いました。
香具師の連中といえば、興行界の伝手《つて》を以て行けば、存外、たやすく当りがつくかも知れない。その時に米友の頭へ発止《はっし》と来たのは、そうだ、この女軽業の親方は顔がいいし、じゃ[#「じゃ」に傍点]の道は蛇《へび》だ。
熊の子を、香具師の手から譲り受ける交渉やなんぞには、親分の道庵先生を頼むよりは、この親方のお角さんに渡りをつけてもらうのが、利き目がありはしないかということです。いい事を考えた。
四十六
道庵先生も、一時は米友のいないことに気がついて、周章狼狽しましたけれど、忽《たちま》ちケロリとして、今日の日程のことに思い及びました。
今日は蒲焼町筋《かばやきちょうすじ》の医学館へ招かれて、講演を試みねばならない日だと考えると、こうしてはいられない。
宿の若衆《わかいしゅ》を呼んで、出発の準備を命じ、自分は鏡に向って容儀を整えてみると、どうも気に入らぬのはこの頭です。
江戸を出る時は、無論、道庵の慈姑頭《くわいあたま》で出て来たが、信州へ入ってから急に気が強くなって、武者修行に出で立つべく、総髪を撫下《なでさ》げにした間はまだよろしいが、松本へ来て、川中島の農民が、農は国の本なりと喝破したのに感激して、佐倉宗五郎もどきの農民に額を剃り下げてしまったのは、いまさら取返しのならない失策でした。
木曾の道中は、御岳《おんたけ》おろしが、いかにこの剃下げの顱頂部《ろちょうぶ》にしみ込んで、幾夜、宵寝の夢を寒からしめたことか。
よって、
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