とある――初めて演説というものと、その周囲の光景とを見た者の眼には、真人間《まにんげん》の仕業とは見えなかったのでしょう。
「演説」という語は、お釈迦様以来の言葉ではあるが、それを実地にとり用いたのは、明治になって、福沢諭吉あたりの意匠に出ているということですが、それを大道に於て、すでにわが道庵先生は、一足お先に試みている。
 今日は、それと違って、極めてまじめなる学術講演であらなければなりません。

         四十七

 そういうわけですから、道庵先生も、この日は極めてまじめな心持で、講演をする用意はしておりました。
 で、最初は、講演者の誰もがするように、無学短才のやつがれが、各位の前に於て、講演することの光栄を謝するとかなんとか、世間並みの謙遜の言葉を、体《てい》よく並べ出したのは、不思議の出来と思われるばかりです。
「そういう次第でございまして、物の数にも足らぬ道庵を、かく心にかけて歓迎くださること恐縮の至りに存じます。本来はからず招かれて参ったとはいえ、この尾張の国というものは、多年、拙者道庵のあこがれの地でございました。生涯に一度は、名古屋の地、尾張の国の土を踏ませていただきたいとの念願が叶いまして、もう道庵も、この世に思い置くことはございません」
と言って、土地ッ子を涙に咽《むせ》ばせた手際なんぞも、鮮かなものでした。
 知っている人がいれば、この辺で、もうハラハラして、居ても立ってもいられない思いをしたのだろうが、この席では、誰もその脱線の危険を感ずるほどに、道庵を知ったものがありません。
 ただ、江戸から来た珍客のエライ先生――という尊敬心が先入となっているのですから、水を打ったような静かさであります。
 こういうふうな神妙な聴衆に接してみると、道庵とても、脱線の虫の出所《でどころ》を失ってしまいます。いやでも、やはり神妙な講演ぶりをつづけなければならないことです。
「申し上げるまでもなく、当尾張の国は東海の中枢に位するのみならず、日本国の英雄の本場でございます。およそ地理に於て、日本に六十余州ありといえども、歴史に於て、二千五百有余年ありといえども、武将として、頼朝、尊氏《たかうじ》、信長、秀吉、家康を除けば、あとは第二流以下であると言ってよろしい。その第一流の五人の武将のうち三人まで、一手に産出しているという国は、尾張の国のほかにある
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