どうしてもできないことだと御承知くださると考えます。出家の身は一所不住と申しまして、一木の下、一石の上へなりとも二度とは宿らぬ願いでございます、ああして身の不徳を恥じながら清澄のお山を下ったこのわたし、どうしてまたあのお山に帰ることができましょうか。まして、人情というものの煩悩《ぼんのう》から全く脱しきれない貧道無縁の身、あちらへ帰りますと、見るもの、聞くものが、みな人情のほだしとならぬことはなく、この玉の緒の絶えなんとすることほどの切なさが、幾つ思い出の数にのぼりましょう、第二の故郷である安房の国へ帰ることは、第二の煩悩の種子を蒔《ま》きに行くようなものでございます。わたくしは安房へは帰れません、清澄のお山へは戻れません……ではせっかく来たものだから、空であろうともなかろうとも、惹《ひ》きつけられた力が絶えようとも絶えまいとも、最初の目的通り、一旦その白骨谷へ行って見てはどうかとおっしゃるのですか……それもそうでございます、わたくしも今それを考えているのでございます。さいぜんまで、あれほど痛切に呼びかけたお雪ちゃんの声が、いま私のあたまに響かないのは、あの子がもう白骨谷にはいない証拠だと、それでわたくしは一時がっかりしまして、それがために、せっかくこれまで来た踵《きびす》を返そうといたしましたが、しかしなおよく考えてみますると、たとえ、お雪ちゃんという子が現在あそこにいないにしても、最近まであそこにいたことはたしかでございます、ですからあの子の最近の便りを知るには、やはり白骨谷に越したところはございません、ともかくも白骨谷に行きさえすれば、もしあの子がいないとすれば、どちらへ行ったか、それは必ず分るはずでございます、やっぱりわたくしは力なくも白骨谷までまいりましょう。むろん、今の心では白骨へ行って、そうして、わたしが、ほっとそこで一息ついても、やれうれしやなつかしやお雪ちゃん、と呼びかけることはできないにきまっています。それから先、どこまで行って、どこで、誰に逢えるか、ちょっと分らなくなってしまいました。ですけれども、やはり一旦は最初の目的通りに白骨へ行くのが、この際、いちばんの順路かとも考えておるのでございます」
と言って弁信は、力なくも足を運ぼうとしましたが、また急に法然頭《ほうねんあたま》を振り立てて、
「え、わたくしに待てとおっしゃいますか。待てとおっしゃいますならば、いつまでもお待ち申しておりましょう、数ある人間のうちで、行方定めぬやせ法師のわたくしを、特に見込んでお呼び止め下さるあなた様に、浅からぬ御縁を感じますものですから、静かにこうしてお待ち申し上げます故、お急ぎなくお越し下されませ、白骨の道は険しうございます――決してお急ぎには及びません、わたくしを雪の中に待たせて置いて、というお気兼ねは御無用にあそばしませ。今のわたくしは引返して、そちらまであなた様をお迎えに出る力こそござりませぬ、止まってお待ち申し上げるぶんには、いつまででも、日が暮れましても、夜が明けましても、月が終りましても、年が経ちましても、一生の間でも、ここにこうしてお待ち申しておりまする」



底本:「大菩薩峠11」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年5月23日第1刷発行
   「大菩薩峠12」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年5月23日第1刷発行
底本の親本:「大菩薩峠 七」筑摩書房
   1976(昭和51)年6月20日初版発行
※底本では、「…人前出で難きほどの体《てい》成り候はば」の後に、改行が入っています。
※疑問点の確認にあたっては、「中里介山全集第七巻」筑摩書房、1971(昭和46)年2月25日発行を参照しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2004年1月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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