る史的根拠と、お銀様独断の順序が、一糸乱れずに存在していることはいるらしい。
 昂奮と、反抗は、ただ表情として現われるのみで、仕事の事務としては、いささかも、狼狽と不規律は存していないようです。
 まず、そのお銀様の筆端にのぼった最初の人の名から調べてみましょう。
 六寸に切った木片の第一には「磐長姫《いわながひめ》」の名が書き記されてあることを発見した時に、これは、お銀様として、さもありそうなことで、いささかも人選を誤っていないことを、誰もさとるに違いありますまい。おそらく神代の日本婦人として、磐長姫ほどに、お銀様に共鳴する婦人は無いかも知れません。
 妹姫、木花咲耶姫《このはなさくやひめ》の名にし負う艶麗なるにひきかえて、極めて醜婦であった磐長姫――瓊々杵尊《ににぎのみこと》から恋せられた妹姫の添え物として、父から贈られたこの醜女の磐長姫《いわながひめ》。
 その美なるを以て妹姫はかぎりなく寵愛《ちょうあい》せられ、その醜なるが故に姉姫は尊からつき返された、そうして笠沙《かささ》の宮を逐《お》われた醜い姉姫は、懊悩《おうのう》と、煩悶《はんもん》と、嫉妬のあまり、米良《めら》の山の中の深い谷に身を投げて死んだ――だが、かりにこれをお銀様の身に比べて、妹に恋の全部を奪われた身になった時、果してお銀様が内外共に、なんらの呪詛《じゅそ》と反抗の形式を外に現わさずに、わが身を殺すだけで甘んじ得られるかどうか、そこはわからない。だから、磐長姫の名を筆頭に上げたからといって、それが真の同情か、真の共鳴か、或いは充分の憐憫《れんびん》と軽蔑とが含まれているのか、それはわからない。
 その次にお銀様は「須勢理姫《すさりひめ》」の名を書いている。
 この女性は、神代に於ける第一の艶福家|大国主命《おおくにぬしのみこと》のために、嫉妬の犠牲となった痛ましい女性である。お銀様はこの女性の名を書いたけれど、嫉妬のどこに同情があるか、またこの女性のように、嫉妬の立場に置かれて、自分が命との間に出来た子を木のまたにくくりつけて置いて、姿を消してしまうほどに無執着になれるかどうか、わからない。また一概に須勢理姫を、悪女の中に入れてしまった標準のほどもわからないが、ただ、嫉妬その事だけが、悪女の最大資格の一つと認定してしまった独断かも知れない。
 それより、やんごとなき身で、実の兄妹で深い恋に落ちた女性の名。
 尊貴の身にして、やはり嫉妬のために焼き亡ぼされ給わんとしたその御名。
 小碓命《おうすのみこと》に恋を捧げて、その父を売った梟帥族《たけるぞく》の娘。
 蛇形《じゃぎょう》の者と契《ちぎ》って、それを悔い恥ずるの心から、箸をほと[#「ほと」に傍点]に突き立てて自殺したという姫の名。
 蘇我氏の大逆の裏に拭うべからざる大伴《おおとも》の小手古《こてこ》の姫の名。
 日本武尊《やまとたけるのみこと》を伊吹の毒の山神の森に向わしめた尾張の宮簀姫《みやすひめ》の名。
 藤原の薬子《くすこ》の名も見える。
 額田女王《ぬかだのおおきみ》の名も、悪女の神に入れてあるらしい。
 石河楯《いしかわのたて》と姦したがために、日本に於てはじめて磔刑《はりつけ》というものにかけられた池津姫《いけつひめ》の名もある。
 夫を外征にやって、その間に帝《みかど》に奪われた田狭の妻――の名もある。
 延喜天暦の頃の才媛にも悪女が多い。
 頼朝の政子も――秀吉の淀殿も――家康の築山殿も、千姫も、みんなお銀様は悪女の名に編入しているらしい。
 ずっと近代になって、延命院の美僧のために犯されたという女性たち。
 大奥の江島は、実は月光院の犠牲であるという意味でお銀様は、流された江島よりは、本尊の月光院の名を憎んで、悪女の中に入れてしまっているらしい。
 それと、生島新五郎の弟大吉を長持に入れて、奥へ運ばせて淫楽に耽《ふけ》ったという尾州家の未亡人天竜院もまた、悪女として、お銀様の供養をまぬがれることはできないらしい。
 三十六人の情夫を持ったという某《なにがし》の俳優の妻も、許した限りの男の定紋をほりもの[#「ほりもの」に傍点]にして肌に刻んだ莫連者《ばくれんもの》――
 蛇責めにあったという反逆の女性。
 すでにかくの如くして、歴史、文章、記録、草紙、物語の中より、一通り検討しつくして筆端にのぼせてしまったお銀様は――ついには物の本にあり、或いは伝説にあって、その実在を疑われるほどのものまでも、ようやく取入れてしまったらしい。
 そこで、今度は、自分の身辺のことに及んで来る。自分の身に最も近いところの、悪女の面影を思い浮べ来《きた》ると、
[#ここから1字下げ]
「悪女大姉」
[#ここで字下げ終わり]
 この名が、先以《まずもっ》て、筆端に押迫って来る。
 染井の化物屋敷の、うんきの中に、土蔵住まいをしていた時の机竜之助の口ずから聞いて、亡き者を、有るが如くに妬みにくんだあのお浜という不貞な女。
 お銀様は、筆誅を加えるほどの意気組みで、その名を錐《きり》で揉み込むほど強く木片に認《したた》めて、長いこと睨みつづけておりました。
 その次には、自分の継母を加えようとしたらしいが、あれはにくむに足りない女だという、軽蔑の気が先に立ったものか、急にとりやめてしまったようです。
 ある時は、お角という女興行師の親方をも筆端に上せようとしてみたが、いやいや、あの女も悪女ではない、いい女だ、気象のさっぱりした、男惚れのする女でもあれば、男まさりもする女だ、自分に対してだけは妙に気を置くが、自分はあの女を嫌いではない、あれは悪女ではあり得ない、とあきらめもしたようです。
 そこで、お銀様は、なお周囲を狭くして、自分の眼に見、耳に聞くところの範囲での悪女――姦通した女、放火《ひつけ》をした女、どろぼうした女、殺した女、殺された女、およそ問題になるほどの淪落《りんらく》の女を調べる気になりました。
 夫を持ちながら情夫が数人あって、その情夫に殺されたというなにがし村の淫婦。
 夫を毒殺して男と逃げたという良家の家附きの女房。
 娘の婿を奪って、娘を川へ突き飛ばしたという後家さんの名。
 美人局《つつもたせ》で産を成したという、強者《したたかもの》。
 夫の情婦をつかまえて来て、焼火箸で突き殺したという武勇伝の女主人公。
 強姦されて出来たという子を殺した娘。
 曰《いわ》く、何、何……
 お銀様としても、多年、左様な淪落の罪悪史を聞いていないことはない。また人の口の端《は》から口の端へと上って成される三面記事を、かなり読ませられていないではなかったが、いざ、目的を以て調べ上げるということになってみると、その材料の蒐集にはかなり不足を感じてきたようです――そこで、例の女中共に強圧命令を下したり、小作連に酒を飲ませたり、甲府から来る石工の若いのを誘惑したりして、その口からとめどもなく、その醜い方面の風聞の募集に取りかかりました。
 この計画はかなり図に当ったようです。夜もすがら、酒を飲ませ、肉を喰わせつつ、思う存分に、エロチッシュを語らせて、それを一室にあって盗み聞くお銀様は、かくてまたこの事に得ならぬ会心と昂奮とを覚えたようです。
 それを聞取ったお銀様は、それぞれの名をしるし、名のわからない時は、情夫を幾人持った女、幾人の男に辱しめられた女――亭主を殺した女、殺したといわれるが証拠の無いという女――その罪の輪郭だけを書いた幾つもの位牌をこしらえつつ、その殖えてゆくのに、ほくそ笑みをしています。
 最初は、歴史的に、文章記録の上から調べ上げた者、その名は全部過去の人でありましたが、後には、ある部分は過去の人があり、追々に大部分が現存の人であろうとする。お銀様は過去の悪女のために位牌を作るのみならず、現存の悪女のためにも位牌を作っているのです。そうして、その結果が、あっぱれ、この悪女塚の供養式の日には、世に無き亡霊を呼び迎えるのみならず、現に生きている悪女という悪女をことごとく招いて、列席させてみようではないかとの、一種異様なる興味に駆《か》られてしまいました。
 この女の我儘《わがまま》と権勢では、やがてその空想の実行にうつるかも知れないが、さて、何の名目で、その悪女のみを集めるか、呼ばれても果して、その招待に応じて、目的の女性たちが集まるか――?

         三十三

 こうして幾日の間、お銀様はスフィンクスをこしらえることの興味に熱中している時、不意にこの熱中を破るものがありました。
 ここでは絶対権を有するお銀様、来って触るるものには、暴君の威を示して粉砕するお銀様の興味を破るものは何、破り得るものは何。
 それはもとより、父の干渉ではありません。父といえども、この領国に足を踏み入るることの危険は、知りつくしていなければなりません。否、父こそ最もその危険を知っているものといわねばならぬ。自然、善にまれ、悪にまれ、気まぐれにせよ、乃至《ないし》、狂気の沙汰にせよ、ある一つの事にお銀様が興味を持ち出したということは、父にとってむしろ勿怪《もっけ》の幸いであらねばならぬ。熱中の間にこそ、ともかく、一時的なりとはいえ、この暴君の境外進出が沮《はば》まれることになる。
 それは、酒飲みに酒を与えて置くように、餓虎に肉をあてがって置くように、飽いて後の兇暴は知らず、ありついている間の平静を喜ばねばならないのが、父伊太夫の立場です。
 況《いわ》んや、その他親族、家人らに至っては慴伏《しょうふく》あるのみで、誰ひとり、お銀様に当面に立とうという者があろうはずがありません。さればこそ、この暴女王の絶対権を干犯《かんぱん》するものが、その興味の中断を試むるものが、この有野王国のうちに存在するはずはありませんが、今日は少なくとも、その暴女王をして一時《いっとき》、呆気《あっけ》に取られて返すべき言葉を知らないほどの事件に出会《でくわ》させました。
「まあ、お嬢様、御無事でいらっしゃいまして何よりでございます、ほんとに、よく御無事でいらっしゃいました」
 こういって、遠慮なく、障子越しに、なれなれしい言葉を聞いたものだから、暴女王が、悪女の名を記す筆をとどめて、あっけに取られました。
 この王国のうちに、自分に対して、こんななれなれしい、涜狎《とっこう》に近い言葉づかいを為し得る奴がどこにいる。
 のみならず、障子越しに、こんななれなれしい言葉をかけてから、縁側へ進み寄って、
「御無礼いたします、お嬢様」
と言って、障子を引開けてしまったのです。そこでお銀様、
「あ、お前は両国の親方じゃないの」
「はい、角《かく》でございます、どうも御無沙汰いたしました」
「まあまあ、お前」
 さすがのお銀様が、あきれて物が言えなくなったのも道理であります。
 女軽業《おんなかるわざ》のお角は、いつもと同じような水々しさと、そらさぬ愛嬌を以て、ここへ現われたのには、さしものお銀様にとって意外の限りでないことはありません。
「だしぬけに、あがりまして、申しわけがございませんが、お嬢様が、こちらにいらっしゃると聞いて、あんまり、おなつかしいものですから、つい、こんなに、ざっかけに押しかけて、お仕事のおさまたげをしてしまいました」
 息をはずませて、お角がこう言いました。これに対して、お銀様に悪意を表するの機会を与えないほどの呼吸でありました。お銀様とても、この意外は強《し》いてつむじを曲げるほどの意外ではなかったと見え、
「ほんとに、親方、珍しいことですね。どうして、いつ、こっちへ来ました。まあ、お上りなさい」
といって、お銀様は、あたりを取りかたづけてお角を招きます。
「まあ、お上り……」
といって、この暴女王から特権を与えられたものは、あの間《あい》の山《やま》から流れて来たお君という薄命の少女のほかには、ちょっと類例を見出し難い記録でしょう。
 それを、ハニかんだり、辞退したりするようなお角ではありません。
「では、御免下さいませ」
 ここで、お銀様とさしむかいになると、お角はまた打ちつけに、
「お嬢
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