るものでもない、滝ばかりは下から仰いで見なくちゃ趣が無いようだ、ひとつこの滝壺を究《きわ》めてみようじゃないか」
「下り口が、わからない」
「ともかく、もう少し登ってみよう、必ず相当の下り口があるに相違ない」
「誰か土地の案内者を頼めばよかったなあ」
そうして三人は、滝壺へくだる道をたずねて登ると、ややあって、
「あった、あった」
丸山勇仙のけたたましい叫び。
彼は、それが滝壺へ下る路かどうかは知らないが、たしかに下へ向うべき路らしいものを発見したらしい。けれども、それが果して道だかどうだか、発見はしながら自分で疑っているらしい。
「なあんだ、路でもなんでもないじゃないか、ほんの崖くずれのあとだ」
仏頂寺弥助が、丸山の発見を冷嘲する。
丸山も一時は、発見を誇大に叫んでみたが、そう言われると、これが果して路だか、どうだか、自信の程があぶなくなる。
事実、そこは岩角が、雨あがりの崖くずれのために崩壊して、その岩壁を斜めに、ほんの足がかり、それもその気で見れば、たしかに人間の通路をなした痕跡《こんせき》があるとも見えるし、ないとも見える。丸山勇仙の最初の印象は、たしかにこれこそ人間の通路、少なくとも火食の息のかかった者が、この間を通った痕跡のある印象に打たれて、叫んでみたのだが、仏頂寺から冷笑されて、またそうではなかったかという気にもなる。
二人は呆然《ぼうぜん》として、どちらがどうという主張もなく、空しくその崖間《がけあい》を見つめていると、後ろにいた兵馬が少し進んで見て、
「滝壺への道路であるかどうかは知れないが、たしかに人間の通った気配はあるにはある」
「ふふん」
と仏頂寺が、兵馬を鼻であしらう。丸山勇仙はやや得意になって、
「そうだろう、たしかに人臭いところがあるよ、一度でも人間の通ったあとには、人間の臭いがするものだ」
「君たちは犬と同じだ」
仏頂寺が、いよいよ冷嘲を極めているが、勇仙は、兵馬が、たしかに自分に味方していると見たから心強く、
「我々が犬なら、君の鼻は豚よりも鈍感というべしだ、たしかにここは人臭い、論より証拠、ひとつ下りてみようではないか」
と、丸山勇仙は実地の踏査を主張したけれど、仏頂寺は、いよいよ冷嘲を鼻の先にブラ下げて取合わず――兵馬は、それほどまでにして滝壺を究めることに、最初から興味をもっていなかったから、これが道路であろうともなかろうとも、身を以て証拠立てようという気にもならない。丸山勇仙も主張はしてみたけれども、他の二人ともに気乗りのしないので、強《し》いて下ってみようとの冒険心もないらしい。
そこで三人は、三すくみのような形になって立っていると、丸山勇仙が再び、最初のようなけたたましい叫びを立て、
「人が登って来る!」
実証のまだ甚だあいまいであったこの岩角の通路を、下から確実に上って来る人がある。その白衣《びゃくえ》を三人ともに認めないわけにはゆかない。
勝ち誇った勇仙は、
「それ見ろ――」
「うーむ」
仏頂寺がテレ隠しに、非常に力《りき》んでみせました。
ほとんど直角に近いほどの崖路。兵馬も、勇仙も、ひとたびは人間臭いと見て、二度目は自信を持てなかったその岩角の斜めについた足がかりを、のっしのっしと上り来《きた》る者のあることは、仏頂寺といえどももう争うことはできなかったが、それでも負惜しみに、
「人間じゃあるめえ、狸だろう」
仏頂寺は悪態をつきました。
「どうだどうだ、仏頂寺、君は鼻も利《き》かないと思ったら、眼もいけないのかえ、人間と狸の見さかいが無くなったのかい、もう長いことはないぜ、かわいそうに」
丸山勇仙が、仏頂寺をあわれむと、仏頂寺はふくれ出し、
「狸だい、狸だい、こっちから石を転がしてブチ落してくれべえか」
「よし給え、冗談《じょうだん》じゃない、下から上って来るところを、上からころがされてたまるもんじゃない」
「ちぇッ、くだらねえ奴だなあ」
仏頂寺はいまいましげに、丸山は熱心に、兵馬は興味を以て、今しも上り来《きた》る人間そのものを注視していると、身が軽い、上から見たのでは、鳥ならではと思われる岩角の足がかりに軽く手をかけ、丈夫に足を踏んで、さっさと上り来って早くも三人の眼前に現われた時、何人よりも兵馬が驚嘆しました。
「鐙小屋《あぶみごや》の神主さん」
「おお、お前さんは、白骨の温泉で逢った若衆《わかいしゅ》さん。こなたは……」
兵馬に挨拶した眼をうつして、仏頂寺を見た時に、仏頂寺はまぶしそうに横を向いて、いまいましそうに、
「ちぇッ、見たくもねえ」
「こいつは苦手《にがて》だ――嫌い物だよ」
といって、丸山勇仙も横を向いてしまいました。
鐙小屋の神主はけろりとして、
「ここで、お前さん方にめぐり逢おうとは思いもかけなかった。お前さん方、安房峠からおいでかエ」
それに兵馬が答えて、
「ええ、安房から平湯へ出て、昨晩、平湯へ泊り、こうして、わざわざ滝を見物に来たのです。そうして、神主さん、あなたは?」
「わしは、白骨から乗鞍を越えて来ましたよ」
「え、乗鞍を越えて……今時、あの山が越えられますか」
「は、は、は、もう少し時刻が早いかおそいかすると危ないところでしたよ、危ないといっても命には別条ないが、荒れを食うところでしたよ、それでも運よく、ここまで来ました」
「何しに、こんなところへおいでになったのです」
「滝に打たれに来ました」
「え、滝に……」
「この滝の味は少し荒い」
「たびたび、あなたはこの滝に打たれにおいでになりますか」
「たびたびやって来ますよ」
「そうですか、驚きました」
こうして、兵馬と鐙小屋《あぶみごや》の神主とが、心安げに会話をしているのを、傍に立って聞いている仏頂寺と、丸山の二人の面《かお》の苦々しさ。
ほとんど、憎悪というよりも一種の抑え難い苦痛を感じて、この神主の立去るのを待っているらしい。キリキリと早く行っちまえ、このロクでなし行者め! 不死身無感覚のトンチキめ! 行っちまえ、行っちまえ。そのくせ、憎悪と苦痛の中には、多少の恐怖さえ閃《ひらめ》いて、さすがの仏頂寺も、お得意の腕ずくでは如何《いかん》ともし難いものと見える。
幸いにして神主の方では、仏頂寺、丸山の存在には、ほとんど注意を払っていないらしく、兵馬にだけ淡泊に、
「わしはこれからまた乗鞍越しをして鐙小屋へ帰りますじゃ、お前さん、お大切《だいじ》においでなさい」
山路を鳥のように走り行く神主の後ろ姿を見ました。
実際、高山を見ること平地の如く、天変と気候とを超越すること金石の如き肉体でなければ、こんなことはできないと、兵馬は手を拱《こまぬ》いて、空しくその後ろ影を見送るばかりです。
そこで、仏頂寺と、丸山は、生き返ったようになって、
「いやな奴だなア」
「いやな奴だよ、行者というやつは、乞食同様な奴さ」
「あんな奴の前へ出ると、何ともいえぬ悪寒《おかん》がして、ゾッと総身の毛穴がふくれるよ、単に悪い奴なら、ブンなぐりもして懲《こ》らしてやるが、あんなのは全くいやな奴だ、なんだかイヤにまぶしくって、胸がむかついて、つい手出しをする気にもなれない」
「そうだ、そうだ、あ、胸が悪い」
仏頂寺と、丸山は、ついに嘔吐《おうと》をはじめてしまいました。
兵馬は、二人をなだめる役に廻り、
「どうだ、これで実証が出来たからひとつ、下りてみようではないか」
「いやいや、あんな奴の通った路や、汚した滝壺なんぞ、見たくも無《ね》え……」
噛んで吐き出すように丸山がいう。
「白骨で聞いた尺八と、あの神主めの面《つら》を見ると、生命《いのち》を削られるようだ」
仏頂寺が、踏んで蹴飛ばすように言う。それを兵馬は笑止《しょうし》げに、
「いや両君、君たち、もう少し深くつきあって見給え、あの神主はいい人間だよ、行《ぎょう》ばかりじゃない、なかなか人間味もあってね。世間も渡っているから、諸国の地理、人情、風俗にわたっていること驚くばかりだ――それで言うことが徹底して、往々聖人のいうようなことを言い出すよ――白骨であの神主に逢ったことが、拙者の今度の旅の、第一の獲物《えもの》であったかも知れない」
「ペッ、ペッ、ペッ」
「ペッ、ペッ、ペッ」
仏頂寺と丸山は、兵馬の神主讃美の言葉を聞くさえ、堪えられぬもののように、再び嘔吐を催すのを、ペッ、ペッと唾を吐いて、ごまかすと共に、充分に軽蔑の意を表し、併せて、兵馬に、もうこれ以上説くな、聞いていられない、という表情をする。
いよいよ、笑止千万《しょうしせんばん》に感ずる兵馬。
その時、仏頂寺が急に思い立ったように、
「どうだ、宇津木、これから白川郷《しらかわごう》へ行ってみないか、飛騨の白川郷というのは、すてきに変っているところだそうだ」
二十四
ここに不思議なこともあればあるもので、名古屋の城の天守閣の上に、意気揚々として、中原の野を見渡している道庵先生の姿を見ることです。
今時《いまどき》、尾張の中村で、豊太閤と加藤清正の供養を単独でいとなみ、容易ならぬ注意人物の嫌疑を受けて、脆《もろ》くも名古屋城下へ拘引されて来た道庵主従。
その嫌疑が晴れるまでは、相当の処分を受けて牢屋住まいをも致すべき身が、こうして青天白日の下に、名にし負う名古屋城の、ところもあろうに、天守閣の上へ立って、意気揚々として、遠く中原の空をながめているなんぞは、脱線ぶりとしても、あまりあざやかに過ぎます。
明治以後になって、あらゆる古城はみな解放されて、多くは遊客の登臨に任せている際にも、尾張名古屋の天守へは誰人も登ることを許されていないのに、衰えたりといえども、徳川の流れ未《いま》だ尽きず、六十二万石の威勢、れっきとしている際に、無位無官の一平民――その一平民の中でも極めて値段の安い十八文の、わが道庵先生の意気揚々たる姿を、この天守の上に見出そうなどとは、あまりに思いがけないことでした。
第一、その時代に於て、いかにこの城地の警備が厳重であったか、ここへ来るまでの難関を、あらまし数えてみると、まず、城内へ入ることを特許されたにしてからが、この天守へ登るまでには、どうしても小天守の間を通らなければならぬ。
御天守の南に並ぶ小天守――それは土台の根敷東西十七間、幅十二間四尺、高さ約四間三尺の上に、二層の天守台が置いてある。これぞ、御天守に登る第一の関門であるから、出入りの禁容易ならず、御用を蒙《こうむ》った出入りの輩《やから》といえども、一応その旨を本丸番所に告げて後に入ることになっている。
鍵は御鍵奉行が預かり、内部にはまたそれぞれの分担があって、いちいち奉行立会の上でなければ開閉ができないことになっているはずです。
そこを、どうして、わが道庵先生が通過して来たか?
そこから、いよいよ本物の御天守へ来てからに、まず口御門《くちごもん》がある。
ここには長さ七尺、幅三尺五寸の扉が二枚あって、右の方の扉には長さ二尺四寸、幅一尺八寸の潜《くぐ》り戸《ど》がついている。門の表はすべて鉄で張ってある。この扉を開くには、まず潜り戸の輪、懸金《かけがね》の錠《じょう》を外《はず》して中に入って閂《かんぬき》を除いて、それから扉を左右に開くようになっている。この錠前の封は御城代の実印を捺して、それを箱に入れ、その箱封にはまた当番の御鍵奉行の実印が要る。そうして、その錠を検査するのは御本丸番の役目で、朝と、夕べと、晩と、三回ずつとある。
道庵先生は、この難関を、どうして突破したか?
口門を入ると桝形《ますがた》がある。ここには石樋《いしどい》があり、口元は千百二十四貫八百五十九匁の鉛を敷いてある。
桝形の奥にまた門があって、その開閉の順序次第は、前と同じことである。
道庵先生は、その関門を如何《いか》ように通過して、次なる御蔵《おくら》の間《ま》に入って来たのか?
この御蔵の間はちょうど、五重の天守閣の番外なる地下室に当る。ここには御金蔵《ごきんぞう》もあれば、井戸の間もある、御土蔵もあれば穴
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