ございます」
 お雪はまだ何だか落ちつかない心持で、隣りの間にも気が置けるらしい。
 さては、と思った北原は、盗むように隣りの間のその当の人を、なおよく認めようと試みました。
 しかし、それは無駄でありました。その人は、面《かお》を横にして、炬燵の蒲団《ふとん》の上に摺《す》りつけているものですから、どうにもその面影《おもかげ》を見て取ることはできません。
 面影は全くわからなかったが、炬燵の傍に机があって、その上に一管の短笛が置かれていることは、めさとく認めないわけにはゆきません。それに、僅かながら、うかがうことのできるその人の風采骨柄《ふうさいこつがら》は、思ったよりは全く若い人だ――といっても無論、お雪ちゃんと相似の人では決してないが、存外すっきりした風采だと思われました。
 どちらにしても、病《や》みほおけた骨格を想像していた北原にとっては、むしろこれは、容貌瀟洒《ようぼうしょうしゃ》というに近いほど、こなれている人だ。それに、身なりも、病人とは思えないほどにキチンとしているし、髪も手入れが届いている――
 そう思って見ると、こちらのお雪ちゃんの取乱した書き物、縫物のほかに、屏風の外へ急に突きやったらしい、櫛箱《くしばこ》、耳盥《みみだらい》、そんなようなものが眼に触れると、北原はなんだか、ここで今まで、おとわ稲川もどきの世話場が、演ぜられていたような気配も想像されないではありません。
 なんとなく、空気が尋常でありませんものですから、さすがの北原も、どちらへどう御挨拶をはじめていいかわからないで、暫くは二つの間へ等分に眼をくれながら、
「村田君を誘って、二人で押しかけて参りました」
「ほんとうによくおいで下さいました、約束をお忘れなく」
 この時分、お雪ちゃんもようやく本心に返りかけたらしく、
「さあ、どうぞ、こちらへ」
 改まって北原と、村田を案内して、
「お炬燵へいらっしゃいましな、今、お火をいただいて来たばかりですから、その方がよろしうございます」
「そうですか、あの、お雪ちゃん、お邪魔をしていても、御病人におさわりはございませんか」
「え、かまいませんとも」
「御挨拶を申し上げたいと思いますが……」
「あ、そうですか」
 お雪はここでもまた、狼狽ぶりを示さずにはおられないらしい。
 そこで、北原も、少し訪問のバツが悪かったな、と思わせられないわけにはゆきません。
 お雪ちゃんの方で、我々の来ることを待構えて、この一間を立て切って置いてくれたなら、水入らずの訪問談もできたろう。また病人に引合わせられるにしても、多少バツがよかったろうに、こうしてあけっぱなしにしているところでは、こちらが闖入《ちんにゅう》して来たようにもなり、お雪ちゃんとしても、改まっての紹介のとっつき場に、ちょっと迷うのも無理はないと思いました。
 その時に、隣りの人が、意外にも気軽に首をあげて、
「これは皆様、よくおいでになりました、お雪がいろいろとお世話になります」
と後ろから、不意にあびせられたものですから、北原と、村田が、おびえたように振返って、
「いやどうも、我々こそ、お世話になりつづけ、失礼のしつづけでございます」
と挨拶を返しました。
 そこで、今までおっくうにもあり、苦心にもしていた、謎の主の面《かお》を、ありありとして正面に見ることができました。
 これは、明るい一間で見た机竜之助以外の何人でもありません。その人が尋常に物を言って、
「この通り眼が不自由なものでございますから、つい一つ宿におりましても、いっこう皆様にお近づきも致しません、失礼のみ致しておりますのに、お雪をはじめ連れの者が、絶えずお世話になっておりまする」
 非常にとおりのよい、むしろ、品のよいと言ってもよい挨拶ぶりでしたから、北原も、村田も、決して悪い気持はしませんでした。
 ただ、こちらまで迎えて挨拶に来ないのは、それは眼が不自由なせいで致し方がなく、今日までの隠退ぶりも、あらゆる病気のそれよりも、物を見る光を失われているという不自由のさせる業《わざ》だときめてみれば、当然のことだと同情を起さないわけにはゆきません。
 案外と思わせられたところは少しもないことが、かえって案外であったかも知れないと思います。
「いやどう致しまして、お雪ちゃんが、この宿にいて下さることのために、どのくらい我々が救われているか知れやしません」
 村田が少し新しい言葉づかいで、お雪ちゃんを讃美したのは、当然これは、この人の妹だ、この人はお雪ちゃんの兄さんだと、判断してしまったからです。
 そこで竜之助が、また挨拶しますには、
「では、どうぞ、そちらの炬燵《こたつ》にゆっくりとお入り下さいまし、拙者はこのままで失礼を致します。こうして相離れていながら、お話を承りたいものでございます」
「左様ならば、我々も御免を蒙《こうむ》りまして。しかし、我々がこうしていい気になって、碇《いかり》を下ろしては、失礼はさて置き、御病気におさわりになるようなことはございますまいか」
 再び念を押してみると、
「そんな御心配は御無用です、今日は大へん気分がよろしいので、お話相手が欲しいと思っていたところでございます、心置きなくごゆるりと」
「しからば、御免を蒙りまして」
 この晴れやかな問答を聞いて、誰よりも胸を撫で下ろしたのは、お雪ちゃんです。
 テレきった自分の立場が完全に救われたのみならず、この人が、こんなにまで、快く人を待遇する気になったのは、来客のために無上の快感であるのみならず、本人自身の病気というものが、全く調子をよみがえらせたものとみないわけにはゆきません。いずれもの意味に於て、お雪は春の光が急に障子の外にまばゆくさし込んで来たような、嬉しい感じでいっぱいになりました。
「さあ、どうぞ、ごゆるりと」
 お雪は、欣々《いそいそ》として、炬燵《こたつ》の蒲団《ふとん》をかきあげたり、座蒲団をすすめたりしていると、北原は持参の蕎麦饅頭《そばまんじゅう》と、塩せんべいをお雪の前へ出し、
「おみやげです」
「恐れ入りました、たいそう遠いところからおいで下さいました上に、こんな過分なおみやげまでいただきまして……ホホホ」
とお雪ちゃんが愛嬌《あいきょう》を見せると、北原が、
「せっかく心にかけての訪問でございますから、何ぞと思いましたが何もございません、ホンの有合せ、これが私共の土地の名物だそうでございます」
 そこでお雪は、お茶をいれにかかりました。
 炬燵に落着いたその刹那《せつな》に、友禅の蒲団にからまっていた書物が一冊――ハラリと飛んで北原の右の膝下に落ちたものだから、北原は何気なく、これを拾い上げて見ると、
[#ここから1字下げ]
「近世説美少年録」
[#ここで字下げ終わり]
 ははあ、宿のつれづれに読むものとしては、ありそうなもの。
 北原も、ちょっと合《あい》の手《て》に、それを取り上げて見ると、北斎の挿絵が、キビキビと胸に迫るもののあるのを覚える。本文は読まずに飛ばして、紙を二三枚めくると、そこに折り目をつけ込んだところが一枚あります。
 本来、読みさしの本には、有合せでも何でもいいから栞《しおり》を入れて置くべきもの。中身の本紙を折畳むことは、無下の振舞だと、北原もそれは嫌いだし、お雪ちゃんのひとがらから言っても、こんなことをさせて置くのは惜しい、と感ぜずにはおられませんでした。
 あわてたな――ちょうど我々が来訪して来た時に、お雪ちゃんはここまで読みすましていたのだ。そこへ不意に我々のおとないを聞いて、あわてて栞をはさむ余裕がなく、ついムザムザと中身の本紙を折り込んでしまったので、これはお雪ちゃんの日頃ではない、非常の際の、ただ一度しか試みてはならない失策なのだ。ふだん、こんなことをしている子ではない、というように北原が、忽《たちま》ちお雪ちゃんのために有利な弁護の道を発見してしまいました。しかし、それが後になって、今まで、絵だけ見て、飛ばして行った本文を、そこから読むともなしに読み出してみると、
[#ここから1字下げ]
「既にして夜行太《やぎやうた》等は、お夏が儔《たぐひ》多からぬ美女たるをもて、ふかく歓び、まづその素生《すじやう》をたづぬるに、勢ひかくの如くなれば、お夏は隠すことを得ず、都の歌妓《うたひめ》なりける由を、あからさまに報《つ》げしかば、二箇《ふたり》の賊は商量《だんがふ》して、次の日、何れの里にてか、筑紫琴《つくしごと》、三絃《さみせん》なんど盗み来つ、この両種《ふたくさ》をお夏に授けて、ひかせもし、歌はせもして、時なく酒の相手とす。只この遊興のみならで、黒三《くろぞう》が宿所にをらぬ日は、お夏を夜行太が妻にしつ、又夜行太がをらぬ時は、黒三が妻にもす。たとへば是《こ》れ両箇《ふたつ》の犬の孤牝《こひん》を愛《め》づるに相似たり、浅ましきこといふべうもあらねど、さすがに我児のいとほしければ、お夏はこれすらいなむによしなし。逃《のが》れ去らんと欲すれども、夜行太と黒三と、かはり代りに宿所にをれば、思ふのみにて便りを得ず、よしや些《ちと》の隙《すき》ありとても、山深くして道遠かり、いづこを人家《さと》ある処ぞと、予《かね》て知らねばなまじひに、走り出で路に迷うて、程もなく追詰められ、行戻さるることしもあらば、わが上のみか球之介《たまのすけ》が、命も保ちがたかるべし、畜生にだも劣る山賊の、しかも良人《をつと》のあだかたきなる、二人の為に身を涜《けが》されて、調戯《なぐさみもの》となれる事、もともといかなる悪業ぞや。好もしからぬ夫でも、ぬしありながら岐道《ふたみち》かけて、瀬十郎ぬしと浅からず、契《ちぎ》りし罪の報い来て、いける地獄に堕ちにけん、世に薄命なる女子《をなご》はあれども、わが身に増るものあるべしやと、過来《すぎこ》しかたを胸にのみ、思ひぞくらす秋の山に、牝恋《つまこ》ふ鹿もうらめしく、まがきにからむ薯《いも》かつら、子にほだされて捨てかねし、身のなる果《はて》をあはれ世に、訪ふ人絶えてなかりけり。畢竟《ひつきやう》お夏がこの窮阨《きゆうやく》の、後のものがたりいかにぞや、そは次の巻に解分《ときわく》るを聴ねかし……」
[#ここで字下げ終わり]
 北原は、眼の落つるところに、一気にこれだけの文字が触れたものですから、一種異様な気分に襲われました。

         十九

 北原賢次は美少年録の件《くだん》のくだりを見た瞬間に、ちょっとそんなような気分に襲われ、ずっと膝先を炬燵《こたつ》の方に突き入れて、斜めに竜之助の方を見ながら、
「お目が不自由ではいちばんいけません、そこひ[#「そこひ」に傍点]ででもございましたか」
「いいえ、怪我をしたのがもとで、ひどい目に逢いました」
「中途から見えなくなったのが、いちばんいけないそうでございますね」
「それが全くいけないのです」
「御病気からではなく、お怪我からでございましたか」
「ええ、怪我からやられました」
「怪我もいろいろございますが、それによって養生の方法も違いましょうね。そうそう、先日見えた二人づれのうち、一人の丸山なにがしというのが、医術の心得があるように言っていましたね、君」
 北原は同行の村田を顧みると、村田はかたくなに坐りこんでいたが、
「そんなようなことを言ってましたね」
「あの人にでも、見ていただくとようございましたがな」
 そこでちょっと話が途絶《とだ》えました。
 しばらくしてから机竜之助が、座右の煙管《きせる》を取りのべて、
「誰に見せてもダメですよ、癒《なお》りっこはないと思うけれど、つい、こうしている間は捨てても置けず……」
とつぶやきました。
「ダメということはございますまいが、せいぜい御養生はなさらなければなりますまい。時にそのお怪我というのは、何が原因なんでございますか」
「この目のつぶれた原因ですか」
「はい」
「これは煙硝《えんしょう》で焼かれたのです」
「え、煙硝に吹かれたんですか」
「そうです」
「いや、その事。わしらの郷国では、あれが大好きでしてね、大仕
前へ 次へ
全52ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング