それに違いはございませんけれど、それほどまでに御贔屓《ごひいき》をあそばすなら、せめて、あの方のこのごろの御消息ぐらいは御存じになっておいでになっても、罰《ばち》は当りますまいと存じます」
「城下にはいらっしゃらないのですか」
「ええ」
「では、犬山に?」
「いいえ……清洲《きよす》のお屋敷へお引籠《ひきこも》りになってから、もう二年越し、どちらへも、ちょっとも外出はなさらないそうでございます」
といって、それからひとしきり、その五年前に、名古屋一等の美人だという極《きわ》めのついている銀杏加藤の奥方の身の上話になりました。
前に言った通り、この席には、銀杏加藤の奥方の身の上について、予備知識を持っている若手も多いことでしたから、勢い、それは最初の発端《ほったん》にまで遡《さかのぼ》っての一代記にならないわけにはゆきません。その話すところを聞いていると、この御城下に、加藤家というのは幾つもあり、東加藤だの、西加藤だの、或いは梅の木加藤だの、ゆずり葉加藤だのといって、いくつも加藤家があるけれど、この銀杏加藤は千四五百石の家柄で、知行高《ちぎょうだか》からいえばさほどではないが、家格はなかなか高い方であるとのこと――でもその家柄は、奥方のほうの家格に比べると、遥《はる》かに及ばないということ。
奥方は名立《なだ》たる美人で、賢明の聞えが高いのに、当主は凡物で、そうして愚図に近いこと――その凡物で、愚図に近い夫を、長い間、面倒を見て来た奥方の賢夫人ぶりに感心せぬ者はなかったということ。そうして十年の間、連添っているうちに、三人の子供を設けた。その三人の子供、男二人、女一人を、もうこれならばというまでに育て上げた時分、夫人は改めて夫の前に出て、
「もうこれで、家の血統のことも心配はなし、わたくしも、妻としての、一応のつとめを、あなたに捧げたつもりでございます、かねてのお約束の通り、ここで、わたくしにお暇《ひま》をいただかせて下さいませ――わたくしを、妻としてでなく、女としての自由をお許し下さいませ、結婚の際の御内約を今日、お許し下さるように」
といって、ようやく加藤家を去ってしまったのは、つい近年のこと。
銀杏加藤《ぎんなんかとう》の家を去って後に、この奥方は清洲《きよす》へ移って、広大な屋敷の中へ、質素な住居をたて、心利《こころき》いた二三の人を召使って、静かに引籠《ひきこも》っているということ。
これが、奥方が結婚最初からの約束でもあり、自分の理想でもあったらしく、そこに引籠って、その生活を楽しみ、仏学を究《きわ》め、和歌をたしなむことに、余念がないという。
主人へは、そのお気に入りの者で、賤《いや》しからぬ召使の女、それは主人が、かねて内々目をかけていた若い娘を推薦して置いて――事実上の円満離縁をテキパキと手際よくかたづけて、この新生活に入ってしまったのです。
それは上述の如く、結婚以前に、世継《よつぎ》が定まる機会を待って、この事あるべき充分の理解が届いていたから、当主も干渉を試むる余地がなく、かくて理想通りの――形をたれこめて、心を自由にする新生活が得られたわけです。さだめてお淋しいことでしょうという者もあれば、ほんとにお羨《うらや》ましい身分という者もある。
惜しいという者もあるし、惜しからずという者もある。
同じ隠退なら、尼寺にでも入りそうなものを、あの水々しさそのままで行いすまされようとなさるのはあぶない。
銀杏加藤の家ではない、実は夫人の生家の方が、加藤肥後守の、現代に於てはいちばん血統に近い家柄であるということは、誰も言うことらしい。
名古屋に加藤家も多いけれど、系図面から純粋に、最も由緒の正しい加藤肥後守の後裔《こうえい》は、あの銀杏加藤の奥方、ただいま問題の、名古屋第一のその当人の生家がそれだという評判は、この席の中にも熟してきました。
その時、急に、何か思い出したように、醒ヶ井が立ち上って、自分の部屋へ取って返したかと思うと、一枚の折本を手に持って、
「皆様、これを御覧下さい、五年前のその時の、これが問題の品定めでございます」
投げ出された一枚の大判の紙の折本になったのが、少なからず一座の興を集めたのを、初霜が早速受けて、披露にかかりました。
「むむ、これこれ、これを、あなた様がお持ちでしたら、もう少し早くこの場へお出し下さればよいのに」
「ついして、今まで忘れておりました」
真先に開いて一通りながめ渡した初霜は、改めてそれを新進の者に示し、
「皆様、よく御覧下さいませ、これが五年前の、名古屋美人の本格の品定めでございますよ」
「どうぞ、お見せ下さいまし」
金魚が餌《えさ》に集まるように、この一枚の番附にすべての興が集まって、自然、当座の批評だの、軽い意味での揚足取りだの、岡焼半分
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