附いてまいってあげてもようございます、そうすれば拙者のためにもよいと思います」
「いやいや、貴殿のお隠れなさるには、かえってこの屋敷がようございます、この屋敷にありさえすれば、決して人の手に捕われるという心配はありませぬ」
「いやいや、拙者のは国を立退いて来たとは申せ、実は、武士の面目の上に止み難き事態であることは、藩の者も皆判っている故、さのみ恐れて隠れ潜む必要はござりませぬ、表面上謹慎を表して立退けばそれで済むのでございます」
「いずれにしても御用心に如《し》くはなし、ゆっくりご逗留なされよ」
「奥方様」
と、梶川は奥方の方に向いて、
「拙者は隠れ潜んでいるのがよいとは申せ、伊津丸殿はこうして永らく一室におられては、お気も屈しましょう、湯治のことはよい思いつきと存じますが、もし湯治においでなさるのに、お手不足でもあるならば、及ばずながら拙者がおともを致しましょう」
「それは有難うございます。実は信濃の国の白骨の湯というのが、たいそうよく効くという話でございますから、それへ、この子を連れて行ってみようとも思いましたが、何を申すにも、時も時、所も所、私たちだけではどうすることもできませぬ」
「ははあ、白骨とはどちらか存じませぬが、そういう次第ならば、拙者が喜んでおともを致しましょう、どうです伊津丸殿」
病人の方へ向き直り、
「湯治に行く気はござりませぬか」
と言われて伊津丸は天井の一方を、涼しい目でじっと見詰めながら、
「湯治に行くよりは、私は肥後の熊本へ行きたいのです」
「はて、肥後の熊本」
と梶川が小首をかしげるのを、奥方がひきとって、
「肥後の熊本は先祖の地だということで、この子はそのことばかり申しております。同じ湯治をするならば、肥後の阿蘇山の麓《ふもと》、また同じ死ぬるならば熊本の本妙寺の土になって、御先祖の清正公の魂にすがりたい、なんぞと口癖のように申していますから、いつもそれをわたしが叱っております」
「ははあ、伊津丸殿は拙者と共に道場通いを致した時も、よく左様なことを申されました」
「はい、この子はどうしたものか肥後の熊本を、先祖の地、先祖の地、と言いますけれど、本当に先祖の地は、この尾張の国だということが、どうしても分らないで困ります。すなわち御先祖清正公は、ここからほんの地続きの尾張の中村で生れ、そうしてあの尾張名古屋の御本丸も、清正公一手で築き成したもの、清正公の魂魄は、肥後の熊本よりは、この尾張の名古屋に残っているということを、よくよく申し聞かせても、どうしてもこの子にはその気になれないようでございます」
「それもそうかも知れませぬ、世間の人も加藤清正公と申せば、肥後の熊本だと思います、清正公の魂は、かえってあちらに止まっておられるかも知れません、それが伊津丸殿の心を惹《ひ》かされる所以《ゆえん》かも知れませぬ」
と梶川が言った時に、病人はちょっと向き直って、
「わたしはやはり肥後の熊本が、なんとも言えず慕わしい、梶川殿、どちらかなれば、わたしは白骨よりは熊本へ行きたい、なんと熊本まで私をお送り下さるまいか」
「お送り申すは容易《やす》いことなれど……」
その時奥方は、キッと襟《えり》を正し、
「伊津丸、お前はそれほど熊本へ行きたいならばおいでなさい、私はいつまでもこの尾張の国に残っております、御先祖の心をこめた、あの金の鯱《しゃちほこ》のある尾張名古屋の城の見えないところへは行きたくありません、死ぬならば尾張の国の土になりたい、熊本はわたしの故郷ではありません」
六十七
信濃の国は安曇《あずみ》の郡《こおり》の山また山――雪に蔽《おお》われた番所ヶ原を、たったひとりで踏み越えて白骨谷に行くと広言した弁信法師、ふと或る地点で足を踏みとどめてしまいました。
「おいおい、寒い時は山から小僧が飛んで来るものだぜ、今時分、逆に山入りをする小僧があるものか」
どこからともない、嘲笑罵声を聞き流して耳を傾けた弁信法師――
「おや、私一人ばかりかと思いましたこの道に、うしろからお呼びになったのは、どなたでございます。え? 何とおっしゃる、白骨谷へ行くのは止めに致せとおっしゃいますか。ははあ、それもそうでございますな、私も今となってまた心が変りました、最初のほどは白骨へ、白骨へと引かされる心持になりましたが、今となりますと、どうも白骨谷が空《くう》になったように思われます、私が逢いたいという人、私が尋ねたいという人は、もう白骨谷にはいないように思われてなりません。はてそれではどこへ行ったとおっしゃるのですか。左様、それは私にもわかりません、ただ白骨へ行こうという気が抜けました、白骨にはもう私の尋ねる人はおりません、そこで私も雪の中を艱難辛苦《かんなんしんく》してあれまでまいる必要がないよう
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