戸を叩いて、
「御免なさい」
「はい」
 そこへ入って来たのは、清澄の茂太郎であります。
 茂太郎は、片手には例の般若《はんにゃ》の面を抱えて、片手にはお茶と菓子とを持って、ここへ入って来ました。
「おじさん、お茶をおあがりなさい」
「はい、どうも有難う」
 この子供はお茶を注いで、七兵衛にすすめたが、そのまま出て行かないで、お客様の傍へきちんとかしこまり、例の般若の面は後生大事にして、そうして、七兵衛に馴々《なれなれ》しく話しかけるのです。
「おじさん、お前どこから来たの?」
「え、私は遠いところから来ましたよ」
「遠いところってどこ?」
「向うの方のお山ですよ」
「向うのお山? では甲州上野原?」
と言われて七兵衛がギョッとして、思わずこの少年の顔を見直し、
「上野原とは違いますけれど、坊ちゃん、あっちの方を知ってますか」
「ああ、あたい、甲州の上野原の月見寺にいたことがあるのよ」
「ああ、そうですか、おじさんのところは上野原より少し近いけれども、やっぱり山ですよ」
「何というところなの」
「青梅というところですよ」
「青梅? 大きな眼があるの?」
「そういうわけじゃありませんよ、青い梅というところですよ」
「そうですか、そんな山の中から何しに来たの」
「少し頼まれた用事があって来ましたよ」
「何の用事を頼まれたの」
「こちらの殿様の御親類から頼まれて来たのさ」
「あんな山の中に、殿様の御親類があったのかしら」
「ええ、ありますとも、そこには御親類の可愛らしいお子さんがいますよ」
「そう、おじさん、もしかして、弁信さんはそっちへ行かないかしら」
「弁信さんて?」
「弁信さんというのは、私のいちばん仲のいいお友達よ。あの人とは、上野原で別れたっきりなんですもの。もしかしておじさんの方へ行ったら知らせて下さい、その人は琵琶を弾く盲目《めくら》の小僧さんだから、直ぐ分りますよ」
「ああ、それじゃ、もしおじさんの方へ来たら、知らせてあげよう」
「どうぞ頼みます」
 そこでこんどは七兵衛が、この少年に向ってたずねてみる気になりました。
「坊ちゃん、お前の名は何ていうの」
「茂太郎――」
「茂ちゃん」
「ええ」
「あの、さっきから物置の方で大きな声で泣いていた者がありますね、あれは何ですか」
「あれはマドロスさんよ」
「マドロスさんというのは?」
「マドロスさんは、外国から海を流れ着いた人なのよ、それを殿様が拾って来て、うちに置いてあるんです」
「そうですか、では外国人の大人ですね」
「ええ、ええ、大人も大人、六尺の上もありますよ、田山先生も大きいけれど、それよりずっと大きくて、眼が碧《あお》くて、髪の毛が赤いんですよ」
「そうですか、そんな大きな人が、なぜあんなに泣くのです」
「それには理由《わけ》があるのよ、おじさん、あれはなかなか赦《ゆる》してあげられない理由があるのですよ」
「へえ、何か悪いことをしたのですか」
「ええ、悪いことをしたんです」
「どんな悪いことをしたの」
「お嬢様に悪戯《いたずら》しちまったんです」
「え、お嬢さんに?」
「そうですよ、それも一度や二度のことではないのです、ですから、今度という今度は殿様もお赦しになりません」
「そうですか、そんな悪い人なんですか」
「いいえ、悪い人じゃないんです、田山先生などは、ウスノロと名を附けてばかにしているくらいですけれど、田山先生がいないとあんなになってしまいます、お酒を飲むからいけないんですね」
「そうですか、誰も殿様へ、お詫《わ》びをしてあげる人はないですか」
「誰もありません、あんまり悪いことをしたから、造船所の人たちなんかは憎がって、海の中へ投げ込んでしまおうと言ってました。そのくらいですから、ああして、本当に心が直るまで手をつけない方がよかろうということです」
「困ったものですね」
「え、こんどのことは私たちもお詫びのしようがないから、うっちゃって置くのです」
「そうですか、でも船が出来上った時は、あの人も連れて行くのでしょう」
「そのことはわかりませんね」
 その時、このところにあった時計が、五ツ鳴りました。七兵衛はこの音で初めて時計に気がついて、そしてなんだか分らない顔をして時計を眺めました。
「ああ五時だ、おじさん、私はちょっと行ってまいりますよ」
 こう言って茂太郎は、この室を飛び出してしまいました。

         六十五

 あとに残された七兵衛、お茶を飲みかけていると、急にまた例の物置の方面で、けたたましい叫び声がして、人がののしり、号泣し、容易ならぬ騒動が持上ったもののようです。
 七兵衛も一度は駈け出して見ようかと思いましたが、そのうちに噪《さわ》ぎはようやく静まり、人も出て行ったようですから、また腰を落着けていると、そこへあわただしく茂
前へ 次へ
全129ページ中122ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング