だが、駒井はこの際、別に新しい研究にとりかかる様子もなく、椅子に反《そ》り返って、腕を組み、キャンドルをながめてボンヤリと考えている。だが、それは必ずしも屈託の色ではなく、自分の計画が、ともかくも着々と進んで行きつつあることに、かなりの安心と、満足とを持っての沈黙であることもわかります。この様子で見ると、先日の蒸気機関引上工事も、多分成功したらしい。
 あれを引上げることに成功すれば、そのまま使用ができないまでも、それを参考として、必ず相当なものを、新たに作り上げるだけの自信が出来ているはず。
 そこで、次に来《きた》るべきものは、その蒸気機関に使用すべき燃料のことです。
 駒井の新たなる調査とか、研究とかいうことは、勢いそこまで進んで来るのが当然で、その次には、船がいよいよ竣工して、その乗組員と積込物資のこと。
 まあ、ここにいて生活を共にする者の全部と、工事を助ける者の一部分とは、同乗することになっているが、指を折ってみると、
 第一、自分というもの、次に、金椎、次に、茂太郎、次に、マドロス、それから、兵部の娘――あの娘も、今では健康も、精神状態も、常態に復したといってよい。あの分なら大丈夫だろう。別に田山白雲が、ぜひとも自分の妻子を伴って参加を申入れている。その他、夫婦共稼ぎで乗組みたいというものが、この地で自分が養成した工人のうちに若干ある、そのうちから選抜すること。植民には女性が要る、同時にまたその女性にも、植民の母という資格が無ければならぬというようなことを、駒井が、うつらうつらと考えはじめました。
 その時に駒井の頭の中にも、お松という女の子のことが、計数と考慮の中に入って来ました。植民の将来の母として、あのお松のような子がぜひ欲しいものだ、と思わせられました。
 それに、あの娘には自分として、切っても切れぬ恩義を蒙《こうむ》っているといわねばならぬ。自分のあやまちから、日蔭に置いてある、まだ見ぬ子――自分にとっては、この地上でただ一人の血をわけた、しかも、男の子というのを、あの娘が預かって育ててくれている。いよいよ日本を立つ時は、どうしても、それに一応の挨拶無しでは立たれない。
 駒井は、また既往のことと、自分のあやまちとを考え来《きた》ると、例の生一本に自分をにくみきっている奇怪なる小さい男――宇治山田のなにがしと名乗る男について、考えさせられないわけにはゆきますまい。
 その時分に、時計の二時が鳴る。
 ああ、もう二時だ、丑三時《うしみつどき》だ、寝なければならぬと気がついた時、ふと思い出したのは、酔いどれのマドロス氏のこと。
 捨てておいても大事はないと信じているが、それでも気にかかる。
 あいつは憎めない男だから、傍へ置いてみたが、今は単に愛嬌者としてでなく、実用の上に無くてはならぬ男になっている。
 彼は、下級労働者ではあるが、外国の事情と、航海の知識等については、経験上から珍重すべきものを持っている。本は読めないが、言葉を研究するには、悪い参考とばかりはならない。それのみならず、船乗りとしての生活の前には、到るところを渡り労働者として歩いているから、何かと経験もあり、小器用でもあって、時には信じ過ぎ、買いかぶって苦笑いに終ることもあるが、大体に於て、この男から得るところのものは、決して少なくないことになっている。
 現に――すでに、機関の方の目鼻があいてみると、次に当然|来《きた》るべきものは、燃料の問題でなければならぬ。
 そこで、駒井甚三郎は、一方天文を研究して船の航路学の準備をすると共に、地質をたずねて、石炭――というものに多大の注意を払いはじめたのは、この頃のことです。
 石炭――に就て駒井甚三郎が注意を払っていたのは、今に始まったことではありません。
 燃ゆる水、燃ゆる土の、半ば伝説的時代はさておき、近代に於ては、九州地方に於て、ひそかにこれを採掘して実用に供している住民のあることを駒井は認めている。
 日本の当局者も、心ある者は、近き将来に、この新たなる燃料の大量需要の来《きた》るべきことを予想し、どうしても、日本内地にその豊富なる鉱山を見出さねばならないことを痛感している。現に不肖ながら、自分もその先覚者の一人で、年来、ひそかに有力な石炭の産地というものに目をつけていないではなかった。幕府にある時は、それぞれの系統をたどって、各地からの報告を取寄せ、今でもそれの参考資料をかなり集めている。
 最も有望といわれる産地、九州地方はさておき、江戸を中心としては静岡地方――それから常陸《ひたち》から磐城《いわき》岩代《いわしろ》へかけて、採炭の見込みがある。それから燃ゆる土、燃ゆる水の発祥地なる北越地方――その辺の古い記憶や、報告資料を調べ、その結果は、ここ安房《あわ》の洲崎《すのさき》
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