の呪われたる存在をつづけて行きます。
ただ、御当人だけが呪われたる生活にひたる分には、まだいいが、その個人生活が漸く甚《はなは》だしい暴虐として現われて来ることには、周囲としてほとんど堪えられぬことです。
父の伊太夫のこの娘に対する苦心、もてあましは、今に始まったことではないが、この際一つの悔いを追加したのは、この娘から、あの弁信という奇怪な小法師を取放してしまったことが、今になると、悔いても及ばぬ感じを起させました。
火事の混乱まぎれに、あの小坊主を冷遇して、出て行かせてしまったことは重大なる失策だ、とはじめて気がついたようです。ナゼならば、あの小坊主のいる間は、とにかく、お銀様は慰められていたようです。慰められないまでも、お伽《とぎ》として座右へ置いても、癇癪《かんしゃく》の種にはならなかったようです。そうしてあの小坊主も、あの娘に向って、思うことはずばずばおしゃべりをしていたようです。
あの小坊主去った後は、お銀様の傍へ寄りつくものがありません。
たまに、寄りつくものがあれば、有無《うむ》をいわせず、尾羽をむしり取られてしまいます。近づく者に多少の惨虐を加えて、若干の負傷をせしめずしては帰すことのないのが、お銀様のこの頃です。
雇人たちは、戦々兢々として、椿の下の御殿へ行くことを怖れます――けれども、主命によって行かねばならない時は負傷を覚悟して、その被害をなるべく少なくするの用意を整えて行きます。
その負傷の軽重は如何《いかん》――つまり、お銀様は、何者をも、自分と同じような不具者にしてみなければ納まらないのかも知れません。満足に近い人間を見ると、そのいずれかに、暴虐を加えて、不具の程度にしてみて、やっと安心するところに、執念があるようです。
伊太夫は、供養の時も、慢心和尚に向って、更に辞《ことば》を卑《ひく》うしてこの事を訴願して、娘の教誡をたのみましたけれど、和尚はこの時ばかりは、丸い頭を左右に振って、
「あれは、わしが手にも負えぬ、わしも、あの娘にはおそれいる」
と言ったきりで、もう取りつく島がないのでありました。
そこで、伊太夫は、小坊主の弁信を手放したことを、返す返すも悔い、あとから追いかけさせてみたけれど、行方は更に知れません。やむを得ずんば第二の幸内をと、暗に当りをつけてみたけれども、その選に当ったものはほうほうの体《てい》で逃げ帰り、それがためにかえって、お銀様の侮蔑と、暴虐とを高ぶらせたに過ぎませんでした。
だが、人間はいつもそう張りきった心で、精髄を涸《か》らし尽すようにばかりは出来ていないと見え、侮蔑と、暴虐と、呪詛《じゅそ》の塊《かたまり》であるらしいお銀様という人も、時とすると、再び以前のように泣きくずれることがあります。
小春日和に、どこともなく裏山を歩いて、森を越え、村を越えて、高いところへ出ると、そこに腰を下ろして、じっと山河を見つめているお銀様の眼から、ひとりでに涙の泉の湧き溢《あふ》るるのを見ないということはありますまい。
そこで、お銀様は、甲府盆地に見ゆる限りの山河をながめます。後ろは峨々《がが》たる地蔵、鳳凰、白根の連脈、それを背にして、お銀様の視線のじっと向うところは、富士でもなく、釜無でもなく、おのずから金峯《きんぽう》の尖端が、もう雪をいただいて、銀の置物のようにかがやくあたりでありました。
ことに、金峯の山が、お銀様の嗜好に適するというのではなく、この地点に座を構ゆれば、おのずから、視線がそこに向くのであります。そこでお銀様は、日の暮るるまで山を見つめて泣くことがある。
自然を見ることによって、人事に想到し来《きた》るから、それで泣けるのでありましょう。金峯の山を見れば、その眼下に甲府の町を見ないわけにはゆかない。甲府を見れば、東に蜿蜒《えんえん》として走る大道――いわゆる甲州街道、門柱としての笹子、大菩薩の嶺々《みねみね》を見ないわけにはゆきますまい――
東に走る大道を見れば、自然、そこで、ついこの間まで暫くの間、数奇なる転変をつづけていたところの生活を、思い出でないという限りはありますまい。
屋敷にいると、人間の呪詛《じゅそ》で固まったお銀様が、高いところへ来ると、少なくとも人間界を下に見るか、或いは水平線に見ることができる。その上に、人間に比較しては悠久性を有する生命のただずまいが存在しているということを見る。
そこで、胸が開けるのでしょう。胸が開けると、堰《せ》かれていた涙が切って落されるものと見える。
そこで、お銀様は人を恋うて泣く。
かつて、愛し且つ虐《しいた》げた美貌の女中お君という女が恋しくなる。お銀様は多分、お君の最期《さいご》をまだ知ってはいまい。あの子はどうしたろう――という半面には、嫉《ねた》みと、憐みとが纏綿
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