く、数町を隔てた彼方《かなた》から、声を合わせて歌う声がする。ははあ、お日待ちのくずれだと、さいぜん男衆が言ったな、くずれだか、かたまりだか知らないが、寺か、お堂の広間を借りて人寄せがあるな。
 こんなことを思いやって、閑なるこの浴室。
 窓の外の雪を見ていると、不意に引戸がガラリとあいて、甚《はなは》だ荒々しい人の足音。同時に裸体を現わした甚だ大きな漢《おとこ》と、さまで大きからぬ男。
 兵馬は、これを一目見て、ほっと、舌を捲いてしまっていると、先方が、
「やあ、いたいた」
 無遠慮を極めて、兵馬の前に裸体のままで立ちはだかって、
「やあ……」
 兵馬が、ほとんどおぞけをふるってしまったのは、この二人の亡者、それが別人ならぬ仏頂寺弥助と、丸山勇仙であったからです。
 二人は、舌を捲いている兵馬を、まともに見下ろしながら、ズブリと兵馬の左右へ飛び込んで、
「占《し》めた、占めた、もう逃げようとて逃がすまい」
「いったい、どうしたのだ」
 兵馬が呆《あき》れ返って問い返すと、仏頂寺がニヤニヤと笑いながら、
「あの日に、君を出し抜いて、我々二人は先発してな、檜峠まで来てみたのだが、はっと思い当るのは、白骨の温泉に忘れ物をして来たことだ。そこで二人が取って返すと、途中、鐙小屋《あぶみごや》の神主というのにとっつかまって、あぶなく祓《はら》い給えを食いそうなのをひっぱずして白骨へ来て見ると、忘れ物もとんと要領を得ない上に、君ももう出立してしまった後なんだ。そこで、我々も残念がって、君の行方を聞いてみると、たしかに中の湯から安房峠《あぼうとうげ》を越えて、飛騨の平湯をめざして行ったと猟師の奴が話すものだから、それ追っかけろと、今早朝、白骨を立って、てっきりここと押しかけて見ると、果して、君がいてくれたんだ、こんな嬉しいことはない」
 兵馬にとっては、あんまり、嬉しくもなんともないことです。
 彼等と手が切れたことを、勿怪《もっけ》の幸い、と気安く思っているのに、この有様だ。
 よくよくの因果だな、この連中、やっぱり、振切ろうとしても、突っぱなそうとしても、やり過ごそうとしても、出し抜こうとしても、ついて離れない。
 イヤになっちゃうな――兵馬は呆れ返ったのみで、叱るわけにも、罵《ののし》るわけにも、追い飛ばすわけにもゆきません。
 そこを仏頂寺が、
「宇津木、さあ、これから高山へ行こう。飛騨の高山はあれで、幕府の知行所だ、講武所の山岡鉄太郎の知行所もある、ちょっと、山国の京都といった面影があって、なかなかいいところだよ。それから東海道方面へ出るのは順だが、どうだ、方向を全く一変して、我々と共に越中へ行かないか。越中は我々の故郷だ、佐々成政《さっさなりまさ》のさらさら越えではないが、これから美濃尾張の方面へ出るのは平坦な道だが、越中へ入るのは非常なる難路だ、それをひとつ我々で越えようではないか、越中の立山、加賀の白山をひとつ廻ってみる気はないか、山の中だけに、とても、東海道筋の平凡な道の及びもつかぬ面白いところがあるぜ」
 どんなことを言い出すかと思うと、丸山勇仙がしゃらけきって、
「おれは、もう山は御免だよ、早く、名古屋へ出ようではないか、岐阜から名古屋、東海道筋へ向うのは、我々亡者にしてからが明るい気分になる、名古屋美人を前に置いて、いっぱいやりたいものだテ」
「それもそうだな。ともかく、我々はたったいま着いたところで、まだ地の理を研究していない、さあ上ってひとつ、前途の方針をとっくりと定《さだ》めようじゃないか」
「よかろう」
 彼等は、ほとんど、ピチャピチャと雀がゆあみをするくらいにして、もう上りにかかるから、兵馬もつづいて上る。二人は、がやがやと話しながら、ついに兵馬の部屋に乱入してしまいました。
 部屋に入ると、いきなり仏頂寺は、床の間に飾った甲冑《かっちゅう》を目にかけ、
「やあ、古強者《ふるつわもの》が控えているぞ、これは相当のものだ、一方の旗頭が着用したものだ、時代は北条中期かな――鎌倉前期までは行くまい」
と言いながら、無雑作にまず兜《かぶと》から引きはずして、自分の頭の上へのせました。
「手荒いことをしてくれ給うなよ」
 兵馬は、おとなしく頼むように言うと、仏頂寺は、
「何だい、おてやわらかに取扱わねばならん甲冑が役に立つか。よしよし、この際ひとつ拙者が、正式にひっかついでみてやろう。拙者のかっぷくは、そう人には譲らないつもりだが、昔の人の甲冑は規模が大きいな。どれひとつ正式に着用して、ためしてみてくれよう」
といって、仏頂寺は、飾り物の甲冑物の具をいちいち分解にかかりました。
 よせとも言えない。
「勇士組にいる時、甲冑《かっちゅう》の着け方も一応は覚えたんだが――どうも勝手を忘れてしまったようだわい。今時は、戦争
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