何となしに、そわそわとなって落ちつき兼ねた模様も見えます。
 じっと暫《しばら》く耳をすましていた北原、
「お雪ちゃん、あれはどなたですか」
「あれですか……」
「あの尺八を吹いているのは、どなたですか、あなた御存じでしょう」
「ええ」
「どなたですか」
「あれはね……」
「我々の間では……最初は、我々仲間の者がやるのだろうと気にもとめておりませんでしたが、中頃から、不思議がるようになりました。君かい、いやおれではない、では誰だ、と論議の末が、ついにわからなくなったと共に、あの笛の音も暫くばったりとやんだものです。それがまた、深夜でも、白昼でも、意外な時に、意外に起るものですから、それから問題になりました。いろいろ物色してみたが、結局、お雪ちゃんの連れの方、そのほかにはあの笛の主が無いということになってみると、ますます問題が問題を生みましたのですよ」
「どうも済みません……」
「いや、済まないということではないですよ、つまりね、我々こうして、計らずも山中に棟を同じうして住んでいますとね、呉越同舟《ごえつどうしゅう》といったようなものでしょう、ましておたがいに、今日まで見ず知らずでこそあれ、敵同士《かたきどうし》じゃないんですからね。無論、呉越どころじゃありません、同海同胞です、みんなこうして一つ棟の下に、一つ湯槽《ゆぶね》の中で、裸にもなり合う仲になっているのですから、兄弟同様の親しみが湧いて来るのも無理がありません。ところで、たった一人が、この不思議な因縁《いんねん》の同舟の中に、我々と全く没交渉なお方が一人、存在なさるということは物足りないではありませんか。時々は噂《うわさ》をしますが、まだ一人として、我々のうちでお目にかかったものはないのです、それがすなわち、あなたのお連れの御病人の方なんです――しかし、御大病でいらっしゃるから遠慮しておいた方がいいと、誰も、そのことを、あなたの前では申し上げなかったでしょう、ところがその御大病の方が、このごろは短笛――尺八ですな、あれをおやりになろうということですから、御病気も大分、およろしくなったのでしょう……と拙者はじめ思いました」
「ほんとうにおかげさまで、近頃は、めっきりよくなったようでございます」
「それでは、やはり、あの尺八は、あなたのお連れの御病人の方がお吹きになるのですね」
「そう、お尋ねを受ければ、左様でご
前へ 次へ
全257ページ中50ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング