野心を起さないものが無いとは誰も断言できないでしょう。ところが今日まで、今後もそうでしょうが、お雪ちゃんを渇仰《かつごう》するものはあるけれども、ついぞ手出しをしようとした奴が無い、そこにお雪ちゃんの潔白と、純粋から来るつよみがあるのです」
「ちっとも存じませんでした、わたしにそんな強味があることを」
「ちっとも存じないところが強味なんですよ、これを存じていてごらんなさい、ツンと取りすましてみたところで、隙《すき》はありますよ……とにかく我々も、ずいぶん世間を渡っている人間ではありますが、それでも、お雪ちゃんのような女性を見ることは、そんなに多くはありません。宝玉というものは、やっぱり深山へ来なけりゃ掘り出せないのかも知れません」
「北原さんも、ずいぶん、お世辞がお上手なんですね」
「ええ、これでも、女では相当に苦労をした覚えがあるんですから、相当に女を見る目もあるにはあるべきでしょう。ところで、お雪ちゃん、あなたの珍重すべき所以《ゆえん》を信じますと共に、その危険についても看取しないわけにはいきません、賞《ほ》めているばかりが親切じゃありませんからね――あなたのお年頃、そうして、自己の有する美質を、人に示して惜しまないところには、また非常なる危険がひそんでいることをさとらなければなりません、そこをひとつ、出過ぎた申し分ですが、わたしから忠告をさせていただきたいものです」
「どうぞ、御遠慮なくおっしゃって下さい、何と言われても、為めになることをおっしゃっていただく分には、決しておこりませんから」
「では申し上げましょうかね。人様のことを申し上げるには、自分の懺悔《ざんげ》からはじめなければなりません。まあ、お茶を一つ……」
 話が思いの外はずんで、賢次がお茶をいれて話しこむ気になると、お雪も身を入れて聞く気になりました。
 今や賢次が、わが身の懺悔話からはじめて、おもむろにお雪ちゃんの為めになる意見話の緒《いとぐち》を切ろうとした途端に、この家のいずれの一角からか、飄々《ひょうひょう》として短笛の音が落ちて来ました。
「あ、尺八」

         十五

「あ、尺八ですね」
 せっかく、語り出でようとする賢次、せっかく、それに聞き入ろうとしたお雪、二人の熟した気分を、この尺八が折りました。
 北原も、話頭を折って、この尺八の音に聞き入る。お雪もまた、それを聞くと
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