ざいます、と申し上げるほかはございません」
「そうですか……」
 北原はここで、また沈黙して、暫く尺八の音に聞き入っていました。
 お雪も、尺八の音が起ってから、なんとなく、そわそわしたけれど、こうなっては急に立ち上るもバツが悪し、その主《ぬし》をそうだと名乗ってしまう以上は、なんだかちょっと荷も下りたような気がしますものですから、同じように、尺八に耳を傾けておりました。
「やはり鈴慕《れいぼ》ですね」
「はい」
 北原はこの時、ほとんど感に堪えたようでありましたが――その途端といってもいい時、ハタと尺八の音がやみました。
 その時、お雪は、急に引寄せる綱にでもたぐられたかのように、あわただしく立って、
「大へん長くお邪魔をしてしまいましたが、ちょっと失礼して参ります、用事が済みましたら、また上りますから」
 あわてて十能を取り上げたのを、北原が火箸《ひばし》を取って、火を掻《か》いてやりながら、
「お雪ちゃん、わたしの方から、お雪ちゃんのところへ押しかけてはいけませんか」
「え、どうぞ」
 お雪は、とってつけたような返答をして、二の句にまどいましたが、北原は、
「村田か、誰かつれて、お雪ちゃんの部屋へ話しに行きますが、ようござんすか」
「え、ようござんすとも、どうぞ、いらしって下さい」
 この場合、悪いとも言えないし、よしこられては困る場合であっても、お雪には、それを断わるようにすげない挨拶はできないたち[#「たち」に傍点]ですから、やむなく承知の旨《むね》を答えました。
「それじゃ上ります、その時にですね、お雪ちゃん、あなたのそのお連れの方に、我々をひとつ御紹介ねがえますまいか、御病気がお悪ければ遠慮を致しますが、あれを、あれだけにお吹きになる元気がおありになるのですから、我々に御面会くだすっても、たいしたおさわりにもなるまいかと存じます」
「それはそうですけれどね」
「いけませんか」
「いけないはずはありませんが、当人がずいぶん、きむずかしい人ですから、もしや、失礼があっては済まないと存じます」
「どう致しまして、失礼の段では、我々人後に落ちません……あなたのところへ遊びに行くのはいいが、お連れの方に御挨拶なしにはいられませんからね。御迷惑のようでしたら、早々引上げますよ、人の気も知らないで、腰を落ちつけているような、心なき業《わざ》は致しません」
「いいえ、
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