いうところへ御挨拶に来てみたのだ。
 来て見るとあの通りの有様で、村はあるにはあるが、銀杏《ぎんなん》もあることはあるが、英雄の誕生地というのがどこだか、石塔も無けりゃあ、鳥居も一本立っちゃあいねえ。これでは日本一の英雄に対する礼儀じゃあるめえ――あんまり情けなくなったから、我を忘れて道庵が、自腹を切って記念祭を催し、いささか供養の志を表してみようとしたまでだ。
 あれが無事に済んだら、その次は信長、その次は頼朝と溯《さかのぼ》って、いちいち供養をして行くつもりであったということ。
 聞いてみれば、エライ物好きのようだが、一応筋は立っており、当人も案外学者だと思わしめられるところもあり、そうして道庵の淡々として胸襟《きょうきん》を開いた話しぶりと、城廓を設けぬ交際ぶりに、護送の役人も感心してしまい、これは弥次郎兵衛、喜多八より役者がたしかに上だと思いました。少なくとも一種のキ印には相違ないが、そのキ印は、キチガイのキ[#「キ」に傍点]ではなく、キケン人物のキ[#「キ」に傍点]でもなく、最も愛すべき意味の畸人《きじん》のキ[#「キ」に傍点]であることを、感ぜずにはおられませんでした。
 ただ役人を顰蹙《ひんしゅく》させるのは、この人物が、名古屋城下へ護送されることを物の数ともせず、ことに家老の平岩がどうの、成瀬がこうの、竹腰がああの、鈴木とは親類づきあいだのと、お歴々を取っつかまえて友達扱いにしていることだが、それも、秀吉や、信長を親類扱いにするほどのイカモノだから、こんな奴は早く城下へ連れて行って、体《てい》よく他国へ追放するに限ると思いました。
 かくてこの一行は、まだ宵のうち、無事に再び名古屋の城下へ送り込まれました。

         八

 尾張名古屋の城下へ足を入れたものは、誰もおおよそこの辺に留まって、お城の金の鯱《しゃちほこ》を眺めて行くのが例になっているから、その翌日の早朝に、旅の三人連れの者――うち二人は当世流行の浪士風のもの、他の一人は道中師といったような旅の者が、幅下新馬場《はばしたしんばば》の辻に立っていることも不思議ではありません。
 ただ朝とは言いながら、時刻が少々早過ぎるのと、そのうちの背の高い方の浪士が、あまり近く濠端《ほりばた》に進み過ぎていることと、それともう一つは、道中師風の若い奴が、従者にしてはイヤにやにさがっているのが気に
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