と見らるべきです。
 いくしばらく、昏々《こんこん》たる夢路を歩んでいるが、道庵お立ちの声は、容易にその夢を驚かすことがない。
 そこで、つい、うたた寝のかりねの夢が、ほんものになり、ほとんど熟睡の境に落ちて行きました。だが、それも深く心配するがものはない、従来、極めて夢そのものを見ることの少なかった米友も、近来はしばしば夢を見ることに慣らされているけれども、かつて不動明王の夢を見て、江戸の四方をグルグル廻らせられたほどに、夢をもてあますことはありません。
 それ以来、夢を見るには見るけれど、夢の後に来るものは驚愕にあらずして、多少の懊悩《おうのう》と懐疑とです。甚《はなは》だ稀れには歓喜であることもあります。最も困惑するのは、夢と現実との世界がはっきりしない、その当座だけのものでありましょう。
 彼は、どこぞでひとたび霊魂不滅の説を吹きこまれてから、それが全く頭脳の中に先入していて、生きている人と、死んだ人との区別が、どうもハッキリしない。有るようで、無いようで、今まで生きていた人が、死んで消え失せたとはどうしても思えないし、そうかといって、眼前、自分の前で死なせて、お葬《とむら》いまで立会った人が、もう一ぺん、生きて動いて来るとは、どうしても考えられないこともある。
 尊敬すべき道庵先生に、その霊魂不滅説の根拠にまで突込んで質問をしてみたこともあるが、先生の答が、要領を得るような、得ないようなことで、おひゃらかされている。
 とにかく、この男としては、どうしても死んだものが、もう一ぺん、形を取って現われて来るようにしか思われてならない。死の悲しみは味わわせられたが、それは、別離の悲しみの少し深い程度のもので、いつか、また会われるという感じが取去れないのが、今はもう信念というほどのものにまでなっている。されば、江戸で失った大切な馴染《なじみ》のお君という女に、このたびの道中のいずれかで再度めぐり逢えるように思われて、信ぜられて、ここまで来ている。
 多分、この時の熟睡の中にも、旅中しばしば繰返されたその夢に、ついさき、見せられた故郷の山河が織り込まれて、相変らず、生と、死と、現実《うつつ》と、幻《まぼろし》との境に、引きずり廻されているに相違ない。
 こうして熟睡に落ちている時――隠れ里の方から賑《にぎ》やかな一隊の女連が繰出して来て、稚児桜を取りまいて、
「稚児
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