が、米友はそれを顧みず、
「うーむ」
 もう一寸前へのたり出す。
「友様、しっかりしな、ウソだよ、ウソだよ、ありゃ伊勢の国じゃねえんだ、まあ、こっちへ来な、こちらの方の、もっと景色のいいところをただで見せてやるから」
と言ったが、もう追っつかない。今更そんな子供だましの気休め文句を言ったって、焼石に水です。
「うーむ」
 この時、もう胸から上が、窓の外に出ている。
「いけねえ」
 道庵は必死にしがみつきました。
 それを物ともせずに、米友は、じりじりと窓の外へ身を乗り出す。その眼は鈴鹿山から伊勢の海あたりをながめながら、その面《かお》は朱のように赤くなって、そうして、口から泡を吐いている。
 どうするつもりだ、何かの無念と、過去の惨酷《さんこく》なる思い出のために、この男は正気を失って、ここから落ちることを忘れているらしい。道庵の言う通り、落ちれば下にきまっている。いくら米友の身が軽いからといって、上へ落ちる気づかいはない。
 落ちたところ――かりにこの出来事が、天守の五重目の上とすれば、石垣が東側の地形《じぎょう》から土台まで六間五尺あって、北西の掘底から、土台までは十間あり、天守は土台|下端《したは》から五重の棟|上端《うわは》まで十七間四尺七寸五分あり、東側から地形《じぎょう》は棟の上端までは二十四間三尺二寸七分あるから、いくら米友の身が不死身に出来ているからといって、もともと生身《なまみ》を持った人間のことだ、この高さから下へ落ちては、たまるものではない。
 それを知らないのか、この野郎、そうなった日には尾上山《おべやま》の時とは違って、もうおれの力ではどうすることもできないぞ。
 だが、この時の当人の身になってみると、その惨酷なる思い出の故郷の山を、こう眼前に見せつけられているよりは、ここから落ちて、微塵《みじん》に砕けて、消え失せた方が、遥かに痛快なのかも知れないのです。
 いずれにしても、危険の刻々に迫るのを見て取った道庵は、ほとんど畢生《ひっせい》の力を出して、抑えてみたが、前にいう通り、道庵の力では相撲にならない。前へ、前へと乗り出して行く米友の力――それはまことに怖るべきもので、さしもの道庵が周章狼狽《しゅうしょうろうばい》、為すべき術《すべ》を知らず――
「誰か来てくれ――助けてくれえ」
 思わず絶叫した時に、あわただしく階段を登り来る人の足音
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