「は、は、は、これこれ、これはまた古来、軍陣中無くてはならぬ一物となっている」
 二人は額をつき合わせて、この書物を見ながらしきりに笑っている。
 兵馬は、ただ苦々しい思いばかりしている。はしゃぎ廻りながら二人は冊子を見てしまうと、兵馬には見ろとも言わないで、そのまま、また鎧櫃の中へ抛《ほう》り込み、それでも感心なのは、いちいち二人でていねいに、もとの通り、鎧櫃の上へ、物の具を飾りつけて、薙刀も以前のところへかけ、そのついでに仏頂寺は障子を細目にあけて外を見まわし、
「いや、この分では大した降りもないようだぞ、明るくなっている、やむかも知れない。やむとすれば、この間に出立しようではないか。今から三人で押し出せば、少々遅着はするが飛騨の高山までは大丈夫。どうだ、宇津木、出かける気はないかい、多少の雪を冒《おか》しても、出立する気はないか」
「そうさなあ」
 兵馬も、ちょっと、返答に困りました。それは今日は籠城《ろうじょう》のつもりでいたから、天気に望みがあり、好きでも嫌いでも、こうなった退引《のっぴき》ならぬ同行者がある以上、ここに逗留をしていなければならぬ理窟はない、といって、この二人の亡者と共に、雲の如く、煙の如く、人間の如く、幽霊の如く、出没進出を共にする気にもなれない。
「出かけよう、出かけよう、こうしていたって仕方がない。さて出かけるとすれば、いったいどっちへ行くのだ」
 彼等は、出かけることが先で、その目的があとになる。行きつきばったりとはいうけれど、その行きつきが、臨時で、無方針になっている。兵馬のは、とにかく、方針が定まっているが、彼等は出没自在になっている。
 だからこの場の風向きで、兵馬が飛騨の高山を主張すれば、むろん彼等もそれに同ずるだろうし、ことに仏頂寺の故郷だという越中方面に爪先が向けば、彼等は喜ぶだろう。
 だが、その時、丸山勇仙が、趣の変った異説を一つ出しました、
「せっかく、平湯へ来たものだから、今日は一日ここで休息をして、この附近で名立《なだ》たる大滝を見て行こうじゃないか、高さ三千尺、飛騨の国第一等の大滝が、これから程遠からぬところにあるそうだ、それをひとつ見物して、明朝出立のことにしたらどうだ」
 この提議が容《い》れられて、今日はとにかく逗留ということになり、仏頂寺、丸山は、肉を煮て酒という段取りです。

         二十
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