たと、お雪は傍から、やっと胸を撫で下ろしていると、その頼みきった北原が、案外に気色《けしき》ばんできました。
「え、大和の十津川ですって……」
「そうです」
「あなたがなんですか、大和の十津川のあの天誅組《てんちゅうぐみ》の騒動へ加入なすったのですか」
「え、ふとした縁でね」
「ははあ。それはそれとして、十津川ではどちら[#「どちら」に傍点]へお附きになりました、勤王勢《きんのうぜい》でございましたか、それとも幕府方でございましたか」
「どちらというわけもないんですがね、途中で、十津川行の浪士たちに逢いましてね、それにすすめられたものですから、ついその気になったまでです」
「それでは勤王方でございましたね」
 北原賢次は、なんとなく我が意を得たとばかり、膝を進めました。
「なんでも中山侍従殿というのを大将にして、事をあげるにはあげたが、数の相違で敗《やぶ》れて、拙者も十余名の同志と紀州路へ落ちて行く途中、猟師の奴に爆弾をしかけられて、こんなことになってしまいました」
「あ、そうでしたか、それはどうもはや、左様な名誉の御負傷とは存じませんでした、なみたいていの御病人だとばかり思っていたものでございますから」
「なあに、名誉の負傷でもなんでもありゃしませんよ」
と竜之助が、苦笑いしました。
「いいえ、名誉です、十津川の一戦は勤王の火蓋《ひぶた》でした、あなたがその名誉ある一戦に加わって、犠牲の負傷を残されたということは、大きなる誉《ほま》れでなくて何でしょう」
と北原が言いました。
「それは本当に勤王心があって、やった事なら名誉かも知れないが、拙者のは出たとこ勝負で、首を突っこんだだけです」
と竜之助が、軽くさばくのを、北原がつり込まれて、
「何事でもです、幕府を敵として孤軍報国のあの義戦に加わろうというのは、赤心鉄腸を備えた勇士でなければできないことです」
 北原賢次がムキになると、竜之助はツンと少しばかり天井を上に向いて、何か言いそうで言いませんでした。
 そこで北原だけに、ハズミがついて、それをキッカケに、しきりに十津川戦陣の物語に鎌をかけて、この勇士に当時実戦の景況を物語らせ、その名誉の負傷のよって来《きた》るところを詳《つまびら》かにさせたいものだと、鎌だけではないモーションをかけてみたりしたが、一向に手答えがありません。
 そこまでは、お雪ちゃんもハラハラす
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