、それを承認したかのように、力を入れてうなずいて、なお、その曲の赴《おもむ》くところを終りまで聞いたことがあります。
「女殺し――」といったのは、どういう意味かよくわからない。誰も、それを押して問う者もなかったが、一座がそれを茶化した意味にも、冷かした意味にも、嘲《あざけ》り笑った意味にも取らなかったことは事実です。
 それ以来、お雪ちゃんの看病しているという大病人が、老《お》いぼれた、血の気のかれきった木石ではなく、何か、そこに解けきれない、たんまりしたものが滞っているような歯痒《はがゆ》い気持を、一同に持たせてしまったことも事実でありました。
 お雪ちゃんの、肉身の祖父とか、父母とかいう人では無論ない、男性とすれば、叔伯系の尊族――もう少し近く持って来れば、肉身の兄ではないか、というような噂《うわさ》が、ちょいちょい話題に上ったこともないではなかったのです。
 だが、その後は、鈴慕の音色が時あって、不意に起り来《きた》ることはあっても、それは一座会同の席の場合に、聞き合わせることは滅多になかったから、箇々に、離れ離れにこそ、あの音色を問題にしたり、多少の悩みを覚えたりしたことはあっても、「女殺し」といった、印象的批評が、共通して誰もの頭に残っていたわけではなく――なかには仏頂寺弥助の如く、ほとんど、身も世もあられぬほどに、あの音色を嫌いぬいたものもあるが、そのほかは概して、その遣《や》る瀬《せ》なき淋しさから、淋しさの次にあこがれの旅枕の夢をおい、やがて行き行きて、とどまるところを知らぬ、雲と水の行方《ゆくえ》と、夢のあこがれとが、もつれて、無限縹渺《むげんひょうびょう》の路に寄する恋――といったようなところに誘われます。吹く人に心あってもなくても、楽と器とがそう出来ている。左様に人の心を誘《いざな》うように出来ている。そこで、聞くほどの人が、甘い悩みと、重い魅惑を誘発されぬということはない。お前さんと一緒に行けば、死ぬことはわかっていても、殺されるよりほかに道はないと知りながらも、わたしゃお前さんを離れることができない――といったような恨みが、この一曲にこんがらかって、もつれて、取去ることはできないらしい。
 本来、鈴慕《れいぼ》の曲は、そうあってはならない。そうなければならないものであって、しかも、それで止《とど》まってはならないはずのものであるのに――

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