れたところを、また無数の鯨舟がやって来て、周囲から攻め立てて、とうとう子鯨を取り返してしまった。
 怒気、心頭に発した母鯨は、行手をふさいだ港口の鯨舟数隻を、粉々にたたきこわすと、そのまま再び外洋に逃れ去ってしまった。
 漁師共もあきらめて、その子鯨だけを大切な獲物《えもの》にして引上げる。
 それからまた暫く海が平和であったが、やがて海鳴りがする。
 港の外を見ると、またやって来た。母親がそこまで来たには来たが、以前の奮迅の勇気は無く、港の外へ来て悲しげに泣く。海が急にわき立ったかと思うと、母鯨は、燈台が崩れたように海中に直立して、真白い腹を鰭でたたきながら、「子を返せ」「子を返せ」と狂いまわる――その哀求の声。
 茂太郎は、その声でガバと起き上ってしまいました。
 外で子をよこせ、子をよこせと哀願している声は、自分を迎えに来たもののように、茂太郎の耳に響きます。
 もう寝られない。寝られないとなれば、この少年は無意味に辛抱して、強《し》いてじっ[#「じっ」に傍点]としていることは一刻もできない性質です――鯨が呼んでいる。鯨ではない、自分の母親が呼んでいる。母親でもないが、誰か自分を
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