舟へ引き上げようとする。
 深く沈んだ母鯨の姿が、見えなくなってしまった。
 とうとう、親の方を逃がしちゃったと漁師共が口惜《くや》しがる。
 逃げたんじゃない、沈んでいる、沈んでいる、と叫ぶものもある。
 外洋《そとうみ》でなければ鯨は、死んでも沈むものじゃない、と怒鳴るのもある。
 逃げたのは男親だ、男の親鯨は逃げるが、母鯨というものは、決して子を捨てて逃げるものじゃ無《ね》え、そこらにいる、そこらにいる、とガナる者もある。
 一旦は逃げても、直ぐに来るから用心しろ、用心してつかまえてしまえ、と声をしぼって警《いまし》める者もある。
 そこで、海岸が暫く静まったが、やがて、すさまじい海鳴りがすると共に、果して大鯨が奮迅《ふんじん》の勢いで、波をきってやって来た。
「そら来たぞッ」
 漁師共の銛《もり》と、船とは、麻殻《おがら》のように、左右にケシ飛んでしまう。
 一気に、子鯨のつながれてあるところへのして来た親鯨は鰭《ひれ》でもってハッタとその綱を打ちきってしまった。そうして子鯨を抱いて、まっしぐらに外洋の方に逃げ出すと、早くも鯨舟が港の出口をふさいでいる。
 そこで出鼻をおさえら
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