とに、鯨ほど子を可愛がる動物はあるまいとの実見談を、番兵さんが、茂太郎に話して聞かせました。
 子鯨を殺された親鯨が、毎日その時刻になると港外までやって来て、或いは悲鳴をあげ、或いは直立して威嚇《いかく》を試みつつ、子供を返してくれと訴うる様のいかにも哀れなのに、その子鯨を殺した漁師が、熱病にかかって死んでしまった、という話を聞いているうちに、茂太郎が、親というものは、動物でさえもそれほど子を愛するものだから、自分も当然親に愛されていなければならないはずなのに、その経験も、記憶も無いということが、この場合になって、茂太郎の興をさましてしまいました。
 そんな話で、かれこれして眠りについた時分、外はさらさらと時雨《しぐれ》の降りそそぐ音。
 それがかえって、しめやかな夜を、一層静かなものにし、時々海の彼方《かなた》でほえるような声が遠音に聞える。
 半島国とはいえ、ここから海はかなり遠かろうのに、あの吼《ほ》えるのは海の中から起るようだ。
 それが気のせいか、鯨がやって来て「子をよこせ」「子をよこせ」と叫んでいるように、茂太郎の耳に聞える――

         十一

 その夜、茂太郎
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