しまいました。
 房総第一の高山の頂上に立った清澄の茂太郎は、この時、日が全く落ち、親しい星がかがやきはじめ、落日の遠く彼方《あなた》に、浩渺《こうびょう》たる海の流るることを認めました。
 清澄の茂太郎は、房総第一の高山の上に立って、煙波浩渺として暮れゆく海をながめて、茫然《ぼうぜん》として立ちつくしていましたが、星を見るには、まだ時刻が少し早いのです。そうかといって、永久に沈黙が続くべきはずのものではありません。
 生物の間に、沈黙の世界というものは無いようです。
 万物がみな歌う、茂太郎が黙っていられるはずがない。明けるにつけ、暮れるにつけ、歌無くしてやむべきものではありません。
 さりとて、茂太郎のが厳密にいって、歌であるかどうかは甚《はなは》だ疑問です。でも、散文ともいえないし、独語ともいえない。
 そうかといって、彼の口を衝《つ》いて出る歌そのものが、決して、立派な創作だと誰がいう。五年前に聞いた潜在意識が首を出すこともあれば、目の前のガチャガチャ虫を模倣することもあります。
 要するに、彼が歌うの歌詞そのものは反芻《はんすう》に過ぎませんが、声楽としての天分に、どれだけの
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