、弁信法師が傍《わき》についている限り、それを訂正しないでは已《や》みません。
「鄭声《ていせい》の雅楽《ががく》を乱すを悪《にく》む」――とかなんとかいって干渉するものですから、せっかくの興を折られた茂太郎の不平を買うことが一再ではありませんが、それでも素直に弁信の忠告に従って歌い直すのを常とします。
 ここには、無論、その弁信はおりません。
 寂寞《じゃくまく》たる空山《くうざん》の夕べを、ひとり山上に歩み行くのですから、何を歌おうと、あえて干渉する者はないのですが、習い性となって、ふと弁信からの横槍《よこやり》をおそれ、そこに良心のひらめきというようなものがあって、自発的に「人も通らぬ山道」の歌を中止してしまったのかとも思われます。
 それは中止したけれど、茂太郎のブレスがこの時は、もう歌をうたうようになっていたのですから――そこで直ちに出直して、
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二人行けど
行き過ぎ難き
秋山を
いかでか
君が
独《ひと》り越ゆらん
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 ゆっくりと、うらさびしく歌い出しました。これならどこからも干渉の来《きた》る憂《うれ》いはあるまい、と安んじた
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