の横須賀へ渡っている。
相州の横須賀に、幕府の造船所が出来たのは昨年のこと。
相州横須賀の造船所が、主として小栗上野の方寸に出でたものであることは申すまでもない。
横須賀の造船所がしかるのみならず、講武所も、兵学伝習所も、開成所も、海軍所も、幕府の新しい軍事外交の設備、一として小栗の力に待たぬものはない。
勝安房《かつあわ》(海舟《かいしゅう》)の如きも、小栗に会ってはその権勢、実力、共に頭が上らない。
駒井も、旗本としては小栗と同格であり、その新知識を求むるに急なる点から言っても、どうしても、相当に相許すところがなければならないはずになっている。
駒井が洲崎から、しばしば横須賀に往復する時分、ある幕府の要路の、非常に権威の高い人が、微行で洲崎の造船所へ来たことがあると、働く人が言っている。
その人品骨柄を聞いてみると、それが小栗上野であったようにも思われる。
六
小栗上野介の名は、徳川幕府の終りに於ては、何人《なんぴと》の名よりも忘れられてはならない名の一つであるのに、維新以後に於ては、忘れられ過ぎるほど、忘れられた名前であります。
事実に於て
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