波打際に小走りに走って行ったものですから、田山が眼を円くしていると、駒井の拾い取ったのは女軽業の親方でもなければ、ジャガタラ芋の根塊《こんかい》でもありません――それは通常のビール罎《びん》一本です。ビール罎の上に赤く十の字が書いてある。通常のビール罎とは言いながら、その時代においては、ビール罎は、決してありふれたものではありません。
けだし、日本に於ては、英国人コブランという者が、明治の初年、横浜にビールの醸造所を設けたくらいですから、その以前に入って来ているには相違ない。その道の人は、相当に味を知っているに相違ないから、自然ビール罎なるものも、一部の方面においては、そう珍奇な物ではなかろうが、田山白雲には目新しいものでありました。
本来ならば白雲もずいぶん飲む方ですから、境遇によっては、すでに、もはや馴染《なじみ》になりきっているかも知れないが、不幸にして彼は貧乏でしたから、外国の酒にまで手をつける余裕がなかったかも知れません。
よし、その余裕があったからとて、彼の気性では、夷狄《いてき》の酒なんぞに、この腸を腐らせることを潔《いさぎよ》しとしなかったかも知れない。
そこで
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