ついているというのも変ですから、或いはオホツク海あたりから来た大鷲《おおわし》が、浦賀海峡を股にかけて、天城山《あまぎさん》へでも羽をのばしたかも知れません。
 見ているうちに、その姿も消えてしまいました。
 そこで、茂太郎は、急に手持無沙汰の感じで、さいぜんの続きであろうところのたわごと[#「たわごと」に傍点]をうたい出しました、
「諸君、フムベールはイカサマですぞ。かれは権力を得ることができなかったために、民衆に結ぼうとしました。その民衆も生《は》え抜きの民衆ではなく、民衆の中の泡です、民衆を代表すると名乗って、実は民衆のカス、民衆の屑、民衆のあぶれ者の、浅薄なる寄集りを民衆と称して、それに近寄って御機嫌を取ったために、最も浅薄な、そのくせイヤに性質《たち》の悪い勢力を作ってしまいました。今でも、あのゴマカシ者を、不世出の偉人かの如く信ずる者があるから、滑稽ではありませんか」
 茂太郎とても、興に乗じてはあえて弁信に譲らない饒舌《じょうぜつ》を弄《ろう》することがある。
 しかしながら、いくら長く喋《しゃべ》っても、弁信のは条理整然として、引証的確なるものがあるが、茂公のは無茶苦茶です。論より証拠、引きつづいての前記の文句を突然うたい出されて、面食《めんくら》わないものがありますか。
 だが、こうして、聞く人もないところの空気を、茂太郎がしきりにかき廻しているのを、不意に惑乱せしめた動物があるのも皮肉じゃありませんか。
 一時《いっとき》、びっくりした茂太郎が、見るとそれはホルスタイン種と覚しい仔牛が一頭、なれなれしくやって来て、その首を茂太郎にこすり[#「こすり」に傍点]つけているのでありました。
「やあ、牛――お前、いつのまに来ていたの」
 茂太郎は一時びっくりしてみただけで、その後はあえて驚きません。尋常ならば、たとえ牛であっても、こんな際に、房総第一の高山の上で、人っ子ひとりいないと信じていたところへ、不意にのっそりと現われて、体をこすりつけられるようなことをされては、大抵の子供は驚愕《きょうがく》のあまり、悲鳴を上げて逃げ出すのがあたりまえですけれども、茂太郎は驚きません。
 こすりつける牛の首筋を、可愛がって撫でてやりました。
 そうすると、今までは多少遠慮の気味でこすりつけていた牛が、もう公《おおや》けに許された気になって、全身をあげて、茂太郎にこすりついて来たその懐《なつ》っこさといったらありません。
 物と物との間には、どうしても、身も魂も入れ上げて好きになれるものもあれば、虫唾《むしず》の走るほど嫌われながら、それでもついて廻らねばならぬ運命もある。
 清澄の茂太郎が、物に好かれる性質を、先天的に、極めて多量に持ち合わせて生れたことは申すまでもありません。ただそれを多量に持ち過ぎていることが、彼を苦しめたこと幾度か知れません。
 都会にあって、見世物に出されて、人気を占めていた時は、多くの婦人が、貴婦人といわるべきものまでが、彼の身《からだ》にこすりつくことを好んでいなかったか――あらゆる動物が彼を慕うて来る、毒蛇でさえも、狼でさえも――いわんや動物のうちの最も順良なる牛が、こうして、なついて来るのは、茂太郎にとっては少しも不思議なことではありませんでしたけれども、そのなつかしがりようが、あまりに濃厚なものですから、
「おや、お前はチュガ公じゃないか、ああ、チュガ公だね、チュガ公……」
 茂太郎に驚喜の色があります。

         九

 チュガ公と呼ばれて仔牛は、前足をトントンと二つばかり鳴らし、クフンクフンと甘えるような息づかいをする。
「ああ、ほんとうにチュガ公だ。お前、久しく逢わなかったね、お父さんも、お母さんも達者かい」
 そう聞かれて牛は、またクフンクフンと鼻を鳴らし、涎《よだれ》を垂らしはじめました。
「お父さんも、お母さんも達者だろう、なぜ、お前、今時分、ひとりで、こんなところへ来たの、みんなが心配するだろう、お父さんやお母さんも心配するだろう、牧場の番兵さんも心配するよ――ひとり歩きをするものじゃない」
 茂太郎は、この場合、仔牛に向って大人びた意見を試みたが、父母|在《いま》す時は遠く遊ばず、という観念を、仔牛に向って吹き込もうとして、かえってくすぐったく思いました。それは他に向って言うことではない、自己に対して責めることなのだ。
 父母|在《いま》しても、いまさなくても、幼き身で無断に遠く遊んで悪いことは、昨今の自分の身がかえって殷鑑《いんかん》だと思いました。
 駒井甚三郎も、田山白雲も、マドロス君も出て行ったあとの洲崎《すのさき》の陣屋から、いい気になって出て来た自分は、興に乗じてこんなところまで上って来てしまった。
 ここを房総第一の高山だと思って上って来たわけではない
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