しまいました。
房総第一の高山の頂上に立った清澄の茂太郎は、この時、日が全く落ち、親しい星がかがやきはじめ、落日の遠く彼方《あなた》に、浩渺《こうびょう》たる海の流るることを認めました。
清澄の茂太郎は、房総第一の高山の上に立って、煙波浩渺として暮れゆく海をながめて、茫然《ぼうぜん》として立ちつくしていましたが、星を見るには、まだ時刻が少し早いのです。そうかといって、永久に沈黙が続くべきはずのものではありません。
生物の間に、沈黙の世界というものは無いようです。
万物がみな歌う、茂太郎が黙っていられるはずがない。明けるにつけ、暮れるにつけ、歌無くしてやむべきものではありません。
さりとて、茂太郎のが厳密にいって、歌であるかどうかは甚《はなは》だ疑問です。でも、散文ともいえないし、独語ともいえない。
そうかといって、彼の口を衝《つ》いて出る歌そのものが、決して、立派な創作だと誰がいう。五年前に聞いた潜在意識が首を出すこともあれば、目の前のガチャガチャ虫を模倣することもあります。
要するに、彼が歌うの歌詞そのものは反芻《はんすう》に過ぎませんが、声楽としての天分に、どれだけのみどころがありますか知ら。それはそれとして、まあ、この際に、口を衝《つ》いて出て来た、たわごと[#「たわごと」に傍点]を一つ聞いてやって下さい、
「そうら、この大海原《おおうなばら》の波の上で、静かに、安らかに、一生を送りたいという人がありますか……ありましたらいらっしゃい、町人方も、お百姓衆も、お小姓《こしょう》も、殿様も、皆いらっしゃい――どなたか健康を欲する人がありますか、幸福を得たい人がありますか、ありましたら、遠慮なくいらっしゃい、手前共がそれを売って差上げます……」
この子は、膏薬売《こうやくう》りの口上を聞き覚えて、それを真似出《まねだ》したかも知れない。
そうでなければ、駒井甚三郎が読む外国の本の口うつしを、うろ覚えにしておいて、それを、ここでそっくり反芻しているのかも知れない。
だが、いずれにしても、模倣というほどに邪気のあるものでなく、焼直しというほどに陋劣《ろうれつ》なるものでもあるまい。次を聞いてやって下さい、
「皆さん、御承知の通り、高慢、罪悪、恋の曲者《くせもの》、代言人、物事に熱くなる性《さが》、乳母《うば》、それに猥褻《わいせつ》な馬鹿話、くだらぬ妄想《もうそう》は、すべて運星のめぐりに邪魔をいたします……さあ、いらっしゃい、わたしたちの力を頼めば、どんな人でも幸福に向います。諸君、エライ占星師にはそんなことは決して珍しくない。マニラは曖昧《あいまい》である、フィルミクは当てにはならぬ、アラビイは怪しげな調子で、口から出まかせを言う、ジャンクタンはなんでもかでも言いたがる、スピナはとかく隠したがる、カルタンは英国王に迷うている、アルゴリュースはあまりにギリシャ臭く、ポンタンはローマ臭い、レオリスとブゼルは大道を辿《たど》っています……そこで自然の秘密を真底から知ったり、運星の幸運を判断したり、アポロのように、風と、死体と、地と、水とで、一切万人に未来のことを示したり、空中から甘露と、霊薬を絞り取って、オロマーズを加味してアリマンヌを除き、そうして、男爵夫人を乞食に恋のうきみをやつさせて、有名なスカルロンの詩を吟じさせたり、何人《なんぴと》にも十分の成功を予言したり、霊妙不思議な惚《ほ》れ薬、黒鉛《こくえん》に、安息香に、昇汞《しょうこう》に、阿片薬を廉価《れんか》に販売したり、まった、月日や年代を言い当てたりするのは、誰ひとりとして、いやさ諸君、誰ひとりとして、ここにいられるわが師ギヨ・ゴルジュウ大先生におよぶものはない……」
この時、頭の上で、大きな鳥の輪を描くのを認めたものですから、清澄の茂太郎は、急にたわごと[#「たわごと」に傍点]をやめて、
「あ、ありゃアルバトロスだ」
地上へ卸《おろ》して見たら、その翼の直径が一丈五尺はあるかも知れない。
もう少し近い空を飛んでいたなら、口笛を吹いてでも呼びとめてみようものを、あの高さでは、自分の魅力も及ばないものと思いあきらめたらしく、
「アルバトロスに違いない」
うらめしそうに、夕暮の空に消えて行く大きな鳥の、白い翼を見送っています。
その見慣れない鳥を、アルバトロスというような名で呼びかけた茂太郎の知識は、駒井甚三郎から出たのではあるまい。多分、例のマドロスが、折に触れては航海話をして聞かせているうち、幾度かその名が出るものだから、海の上を飛ぶ大きな鳥さえ見れば、この子はこのごろ、アルバトロスと呼んでみたくなるのらしい。
事実上、海洋と、孤島とを棲処《すみか》として、群棲《ぐんせい》を常とする信天翁《あほうどり》が今時分ひとりで、こんなところをうろ
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