湧き出して来たのはぜひもありません。
あんまり、脆《もろ》い負け方である。ハタキ込みというようなあの手にかかると、相撲にならない先に、わが浜辺の名うての力士たちがひっくり返ってしまう。
この分では総勢撫斬りであろう、余興とは言いながら、毛唐風情《けとうふぜい》のために、浦方すべてが総嘗《そうな》めとは――残念である、業腹《ごうはら》である。
その雲行きを、笑いながら見ていた田山白雲が、やがて今や登場の一力士に近寄って耳打ちをして、腰と手を以て、取り口を指南したのを、マドロスが遠目で見て、
「田山サン、ズルイ」
と叫びました。
田山の指南の結果、その力士は、立合うと、マドロスの最初の一撃を左の腕で受留めると、そのまま組みついて、腰投げに行ったのが見事にきまり、ここにはじめて常勝将軍に土がついたものですから、浦もくずれるばかりの大喝采です。
マドロスの、田山白雲を恨《うら》むこと。
かく、すべてが大陽気である間、田山白雲は、駒井甚三郎に向って、この引揚作業が、おおよそ何日を要するかを尋ねると、十日の予定、遅くとも十五日――とのことでしたから、その間を水郷に遊ぶべく、単身この浦を出でたのは、施餓鬼《せがき》とお祓《はら》いの翌日のことでありました。
八
その日の夕方、清澄の茂太郎は、般若《はんにゃ》の面をかかえて、房総第一の高山を、すでに八合目あたりまで上って来ました。
その辺まではわきめもふらずに上って来たが、ここで歩みをゆるやかにしたものですから、呼吸もやや平調になったのでしょう。ブレスが正しくなったために、歌をうたいたくなったのだか、何か歌いたくなったものだから、それでブレスの加減をする気になったのか……
とにかく、茂太郎の足がゆるやかになると共に、
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一つとや――
人も通らぬ山道を
誰かさんと
誰かさんが……
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せっかくのことに、勢いこんで歌い出したのに、急に息がつまったもののように途切《とぎ》れて、
「弁信さん、だまっといでよ」
弁信は、なにかにつけて茂太郎の即興歌に、干渉したものです。
それは茂太郎の出まかせの即興が、たとえ純然たる無邪気を以て発せらるるにせよ、内容を無視した形式だけの肉声で、その歌詞が往々飛んでもないところへ外《そ》れるのを、当人自身が悟らないのだから、弁信法師が傍《わき》についている限り、それを訂正しないでは已《や》みません。
「鄭声《ていせい》の雅楽《ががく》を乱すを悪《にく》む」――とかなんとかいって干渉するものですから、せっかくの興を折られた茂太郎の不平を買うことが一再ではありませんが、それでも素直に弁信の忠告に従って歌い直すのを常とします。
ここには、無論、その弁信はおりません。
寂寞《じゃくまく》たる空山《くうざん》の夕べを、ひとり山上に歩み行くのですから、何を歌おうと、あえて干渉する者はないのですが、習い性となって、ふと弁信からの横槍《よこやり》をおそれ、そこに良心のひらめきというようなものがあって、自発的に「人も通らぬ山道」の歌を中止してしまったのかとも思われます。
それは中止したけれど、茂太郎のブレスがこの時は、もう歌をうたうようになっていたのですから――そこで直ちに出直して、
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二人行けど
行き過ぎ難き
秋山を
いかでか
君が
独《ひと》り越ゆらん
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ゆっくりと、うらさびしく歌い出しました。これならどこからも干渉の来《きた》る憂《うれ》いはあるまい、と安んじたのでしょう。
しかし干渉は来らないが、感傷の起るのはぜひもないと見えて、茂太郎は愁然《しゅうぜん》として、同じ調子を二度繰返されてしまいました。
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二人行けど
行き過ぎ難き
山道を
いかでか
君が
独り越ゆらん
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二度目の歌では字句に少しの変化がありましたけれど、調子にはさのみ変りはありません。
歌いきった後、
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いかでか君が独り越ゆらん――
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これを茂太郎は折返しました。
聞くに堪えんや陽関三畳の詞《ことば》――といったような気分を自分が誘い出して、自分が堪えられないような心持で、ついに「く」の字に曲る路の折目に立って、暫く息を休めておりました――が、思いきって威勢のいい足を踏み出し、
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クマニセントー通る時ゃ
前から鉄砲でドカドカと
あとからラッパで責めかける
今年ゃ何で苦労する
皆、天朝さんのかかり
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軍歌のつもりかも知れません。これを進軍の歩調に合わせて、ホイチニといわぬばかりの勢いで、一気に、房総第一の高山の頂上までのぼりつめて
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