が、もうこれより上へのぼるところはないからここで止まったのだ。上へのぼるところがありさえすれば、雲の上へでも、空の上へでも、登ってしまったかも知れない。しかし、ここまででさえ上って来て見れば、鹿野山よりも、鋸山《のこぎりやま》よりも、清澄よりも、まだ高いらしい。
 本来、こんな高い所へ登ろうと企《くわだ》てて来たのでもなんでもなく、今もいう通り、誰もとがめる人がないから、興に乗じて、ついここまで来てしまったのだ。今になってはじめて、洲崎の陣屋をかなり遠く離れて来ていることと、日というものが全く暮れてしまっていることを悟りました。
 牛に向って教訓を試みたことによって、はじめて我が身に反省することを知り、わが身に反省してみると、
「ああ、そうだ、そうだ、お嬢さんが待っている、あたしも早く帰らないと悪い――」
 茂太郎に父母はいないらしいが、彼の身を心配する人が無いというはずはない。
 兵部の娘が心配する。そこで茂太郎は、
「さあ帰ろう、牧場では、きっとお前を探している、あたいだって、誰か探しているかも知れないが、あたいの方は、今日はじめてじゃないんだから……」
 全く茂太郎の脱走は、今にはじまったことではないから、心配する方にも覚えがある。仔牛の方はそうはゆくまい。熊か、狼にでも食われたか、牛盗者《うしぬすびと》か、後生者にか――血眼《ちまなこ》になって騒いでいるに相違ない。
「お前を柱木《はしらぎ》の牧場まで送ってって上げる」
 茂太郎は、仔牛の頭を撫《な》でながら、房総第一の高山を下りにかかりました。
 房総第一の高山を下ると、そこに柱木の牧場があります。
 柱木《はしらぎ》の牧場は、嶺岡《みねおか》の牧場の一部で、その嶺岡の牧場というのは、嶺岡山脈の大半を占める牧牛場――周囲は十七里十町余、反別としては千七百五十八町余、里見氏より以来、徳川八代の時に最も力を入れ、南部仙台の種馬、和蘭《オランダ》進献の種馬、及び、天竺国雪山《てんじくこくせつざん》の白牛というのを放ったことがある。
 仔牛を送って、柱木の牧場まで来た清澄の茂太郎、
「番兵さん、チュガ公を連れて来たぜ」
「チュガ公を……そういうお前は、芳浜の茂坊じゃねえか」
 牧場は、軍隊組織になっているわけではないが、この番人は、陸軍の古服でも払い下げたものか、いつも古い軍服を着ているものだから、茂太郎は、番兵さんの名を以て呼んで、その本名を知らない。
 その番兵さんは、チュガ公の帰来を喜ぶよりは、茂太郎の現出に少なからぬ驚異を感じているもののようです。
「番兵さん、チュガ公もずいぶん大きくなったものだねえ、まるで見違えてしまったよ、それでも直ぐわかったよ」
「茂坊、お前もずいぶん珍しいことじゃないか、今までどこに何をしていたえ」
「三年目だねえ」
「そうだなあ、三年目だなあ」
「三年前の夜這星《よばいぼし》が出る晩だったよ、チュガ公の生れたのは」
といって、茂太郎は牛小屋の中を、まぶしそうに見入ります。
 三年前の夜這星《よばいぼし》の出る晩というのは、何日《いつ》のことだか、その夜這星とは、何の星のことだかわからない。茂太郎独特の暦法によるのだから、明白な時間と、位置はわからないが、この牛の誕生のその時に、まさに清澄の茂太郎がここに立会っていたことは事実らしい。
 番兵さんが産婆役をして、茂太郎が介添役となって、かくて安々と玉のような牛の子が、夜這星の下《もと》に生れ出たのである。そのチュガ公という名の名附親が誰あろう、この清澄の茂太郎御本人ではないか。チュガ公という名になんらのよりどころと、つかまえどころがあろうとは思われない。生れ落ちると同時に、
「番兵さん、名前を何とつけてやろうか知ら。チュガ公はどうだね、チュガ公とつけたらどんなもんだろう」
「よかろうね、なんでも名は、呼びいいのがいい」
 そこで即座に、チュガ公の名が選定されてしまいました。
 その後、茂太郎去って後も、多分その名で呼ばれ通して来たのでしょう。畜生の身としても、その産婆役と、名附親とを忘れてよいものか。
「チュガ公が、このごろお前、だまって出歩きをするようになっていけねえんだ」
「どうして」
「どうしてったって、お前、お母《っか》あが亡くなってからというもの、出歩きをしたがっていけねえ」
「え、チュガ公のお母あは死んだのかい、番兵さん」
「ああ、惜しいことをしたよ、この春ね」
「ええ、だから、お父さんも、お母さんも達者かと聞いてみたんだのに、どうして死んだの、病気でかい」
「いや、病気で死んだんじゃねえんだ、乳を取られに江戸へ連れて行かれて、それっきり帰って来ねえんだ、いや帰してくれねえんだから、多分……」
「そんならチュガ公のお母さんは江戸にいるだろう、江戸にいれば死んだときまりはしまい」

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