、この人ほど維新前後の日本の歴史に重大関係を持っている人はありません。
それが忘れられ過ぎるほど忘れられているのは、西郷と、勝との名が、急に光り出したせいのみではありません。
江戸城譲渡しという大詰が、薩摩の西郷隆盛という千両役者と、江戸の勝安房という松助以上の脇師《わきし》と二人の手によって、猫の児を譲り渡すように、あざやかな手際で幕を切ってしまったものですから、舞台は二人が背負《しょ》って立って、その一幕には、他の役者が一切無用になりました。
歴史というものは、その当座は皆、勝利者側の歴史であります。
勝利者側の宣伝によって、歴史と、人物とが、一時|眩惑《げんわく》されてしまいます。
そこで、あの一幕だけ覗《のぞ》いた大向うは、いよ御両人! というよりほかのかけ声が出ないのであります。しかし、その背後に、江戸の方には、勝よりも以上の役者が一枚控えて、あたら千両の看板を一枚、台無しにした悲壮なる黒幕があります。
舞台の廻し方が、正当(或いは逆転)に行くならば、あの時、西郷を向うに廻して当面に立つ役者は、勝でなくて小栗でありました。単に西郷とはいわず、いわゆる、維新の勢力の全部を向うに廻して立つ役者が、小栗上野介《おぐりこうずけのすけ》でありました。
小栗上野介は、当時の幕府の主戦論者の中心であって、この点は、豊臣家における石田三成と同一の地位であります。
ただ三成は、痩《や》せても枯れても、豊太閤の智嚢であり、佐和山二十五万石の大名であったのに、小栗は僅かに二千八百石の旗本に過ぎないことと、三成は野心満々の投機者であって、あわよくば太閤の故智を襲わんとしているのに、小栗は、輪廓において、忠実なる徳川家の譜代《ふだい》であり、譜代であるがゆえに、徳川家のために謀《はか》って、且つ、日本の将来をもその手によって打開しようとした実際家に過ぎません。
ですから、石田三成に謀叛人《むほんにん》の名を着せようとも、小栗上野をその名で呼ぶには躊躇《ちゅうちょ》しないわけにはゆかないはずです。
徳川の天下になってから、石田は、一にも二にも悪人にされてしまっているが、明治の世になって、小栗の名の謳《うた》われなくなったとしてからが、今日、彼を、石田扱いの謀叛人として見るものは無いようです。
小栗上野介が、自身、天下を望むというような野心家でなかったことは確かとして、そうして彼はまた、幕府の保守側を代表する、頑冥《がんめい》なる守旧家でなかったことも確実であります。
小栗は、一面に於て最もすぐれたる進歩主義者であり、且つ、少しの間ではあったが、これを実行するの手腕と、地位とを、十分に与えられておりました。
彼が最初――新見、村垣らの幕府の使節と共に米国に渡ったのは僅かに二十余歳の時でありました。或いは三十余歳。しかも、この二十余歳の青年|赤毛布《あかげっと》は、他の同僚が、西洋の異様な風物に眩惑されている間に、金銀の量目比較のことに注意し、日本へ帰ってから、小判の位を三倍に昇せたほどの緻密《ちみつ》な頭を持っておりました。
ほどなく勘定奉行の地位を得、またほどなく財政の鍵を握って、陸海軍の事を統《す》ぶるの地位に上ったのも、当然の人物経済であります。
勝でも、大久保でも、その手足に過ぎないし、講武所も、兵学所も、開成所も、海軍所も、軍艦の事も、火薬の事も、造船の事も、徴兵も、郵便も、今日まで功績を残している基礎に於て、彼の創案になり、意匠に出でぬというもののないこと再論するまでもない。
その人となりを聞いてみると、酒を嗜《たしな》まず、声色《せいしょく》を近づけず、職務に勉励にして、人の堪えざるところを為し、しかも、和気と、諧謔《かいぎゃく》とを以て、部下を服し、上に対しては剛直にして、信ずるところを言い、貶黜《へんちゅつ》せらるること七十余回ということを真なりとせば、得易《えやす》からざる人傑であります。
小栗上野介が、単に人物として日本の歴史上に、どれだけの大きさを有するか、それは成功せしめてみた上でないと、ちょっと論断を立て兼ねるが――少なくとも、明治維新前後に於ては、軍事と、外交と、財政とに於て、彼と並び立ち得るものは、一人も無かったということは事実であります。
この人が、徳川幕府の中心に立って、朝廷に反《そむ》くのではない、薩長その他と戦わねばならぬ、と主張することは、絶大なる力でありました。
長州の大村益次郎が、維新の後になって、小栗の立てた策戦計画を見て舌を捲いて、これが実行されたら薩長その他の新勢力は鏖殺《みなごろ》しだ! と戦慄《せんりつ》したというのも嘘ではあるまい。
かくありてこそ、大村の大村たる価値がわかる。西郷などは、この点に於ては、甚《はなは》だノホホンです。
小栗の立てた策
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