勢いで、高崎藩の陣屋へ馳《は》せつけた日には、ただでは済むまい、火花が散るか散らないかは先方の出よう一つであるが、どのみち、ただでは済むまいと見てあるうち、幸か不幸か、先刻遣わした使者の者が二人、きわどいところで、ばったりと本隊にでっくわしたものです。
「どうした、エ、何をしていたのだ君たちは」
組頭は、充分の怒気を頭からあびせかけると、二人の使者は、さっぱり張合いがなく、
「いやどうも、少々とまどいを致して、力抜けの体《てい》でございました、それがため復命が遅れて申しわけがござりませぬ、万事はあの旗印を御覧下さるとわかります」
彼等は旗印を指さしたが、その旗印こそ不審千万なので――そこで追いかけて彼等が説明していうことには、
「御覧下さい――あれはお勘定奉行の諒解《りょうかい》の下《もと》にやっている仕事でございます、しかも作業の発頭人《ほっとうにん》は、もとの甲府勤番支配駒井能登守殿であるらしいことが、意外千万の儀でございました」
それを聞いて、組頭の面の上に、かなり狼狽《ろうばい》の色が現われました。
「ははあ……」
これも拍子抜けの体《てい》で、改めて、翩翻《へんぽん》とひるがえる旗印を見直すと、丸に立波、そう言われてみれば、紛《まご》う方《かた》もない、これは勘定奉行の小栗上野介殿《おぐりこうずけのすけどの》の定紋《じょうもん》。
その旗印が小栗上野介の定紋であるのみならず、なお奇怪にも聞えるのは、その旗印の下に仕事をしているのが、以前の甲府勤番支配駒井能登守らしいと言われて、彼等は夢を見たように、ぼんやりと考えさせられてしまいました。
小栗を知るほどの者は、駒井を知らないはずはなかろうと思われる。
しかし、小栗が隆々として、一代の権勢にいるのに、駒井は失脚以来、その生死すらも疑われている。七十五日は過ぎたが、その人の噂《うわさ》というものは、時事の急なる時と、急ならざる時、人材が有るとか、無いとかいう時には、必ず誰かの口から引合いに出されねばならないことになっている。
さては没落と見せたのは表面で、内々は小栗上野介と謀を通じて、隠れたる働きをしていたのか、油断がならない――と軍艦奉行の組頭が、この時はじめて恐怖を催しました。
軍艦奉行の威勢も、勘定奉行の権勢にはかなわない。
さすが勝安房守の名声も、小栗上野介の旗印の前には歯が立たないということを、この時の賢明なる軍艦奉行配下の組頭が心得ていたのでしょう。
高崎藩ならば、大多喜藩ならば、一番おどかしてもくれようと意気込んで来た一隊が、急に悄気《しょげ》こんで、
「ははあ、ではやむを得ないところ」
旗を巻いて、進軍の歩調が、すっかり鈍《にぶ》ってしまいましたが、拳のやり場を体《てい》よくまとめて、またも以前の方面へ引返したのは、少なくとも組頭の手際です。
ほどなくこの一隊は、君ヶ浜方面に向って、なにくわぬ面《かお》で測量をはじめました。
一方、引揚作業の方面では、十分に焚火で身をあぶった海人海女が介添船に乗る。
駒井甚三郎は、別に一隻の小舟に、従者一人と例のマドロスとを打ちのせて――そのいずれの船にも丸に立波の旗印が立っている。
この作業にあたって、駒井が最初から、勘定奉行の小栗上野介の諒解《りょうかい》を得ているというのは、ありそうなことです。
そうでもなければ、こうして白昼大胆に、こんな作業が行われるはずはない。そうして、小栗と駒井との関係は、特にこの機縁だけで結ばれたものではあるまい。
駒井は洲崎《すのさき》の造船所から海を越えて、しばしば相州の横須賀へ渡っている。
相州の横須賀に、幕府の造船所が出来たのは昨年のこと。
相州横須賀の造船所が、主として小栗上野の方寸に出でたものであることは申すまでもない。
横須賀の造船所がしかるのみならず、講武所も、兵学伝習所も、開成所も、海軍所も、幕府の新しい軍事外交の設備、一として小栗の力に待たぬものはない。
勝安房《かつあわ》(海舟《かいしゅう》)の如きも、小栗に会ってはその権勢、実力、共に頭が上らない。
駒井も、旗本としては小栗と同格であり、その新知識を求むるに急なる点から言っても、どうしても、相当に相許すところがなければならないはずになっている。
駒井が洲崎から、しばしば横須賀に往復する時分、ある幕府の要路の、非常に権威の高い人が、微行で洲崎の造船所へ来たことがあると、働く人が言っている。
その人品骨柄を聞いてみると、それが小栗上野であったようにも思われる。
六
小栗上野介の名は、徳川幕府の終りに於ては、何人《なんぴと》の名よりも忘れられてはならない名の一つであるのに、維新以後に於ては、忘れられ過ぎるほど、忘れられた名前であります。
事実に於て
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