げに着手するという噂《うわさ》を承りましたが、多分その騒ぎであろうと思います……」
「怪《け》しからん……」
組頭は最初から機嫌を損じておりましたが、いよいよ面《おもて》を険《けわ》しくして、再び遠眼鏡を取り上げ、
「よく見て来給え、何の目的でああいうことをやり出したのか、屹度《きっと》問いただして来給え、次第によっては、その責任者をこれへ同道してもよろしい」
この命令の下に、早くも軽快なのが二人、飛び出して行きました。
組頭が不興な色を見せるのみならず、一隊の者が残らずそれに共鳴して、岩角の上から黒灰の浦を睨《にら》めている。
けだし、これらの人々の不快は、自分たちが幕府の軍艦奉行の配下として、この近海に出張している際において、自分たちに一応の交渉もなくして、海の事に従事するというのは、たとえ高崎藩であろうとも、佐倉藩であろうとも、生意気千万である。
ことに自分たちの奉行は、当時海のことにかけては、誰も指をさす者のない勝安房守《かつあわのかみ》であることが、虎の威光となっているのに、それを眼中におかず、ことに外国船引揚げというような難事業を、彼等一旗で遂行《すいこう》しようという振舞が言語道断である。
そこで軍艦奉行の連中が、自分たちの首領の威光を無視され、自分たちの権限をおかされでもしたように、腹立たしく思い出したものと見える。
かくて、彼等は測量のことも抛擲《ほうてき》して、岩角に立って、黒灰浦の方面ばかりを激昂する面《かお》で見つめながら、使者の返答いかにと待っているが、その使者が容易には帰って来ないのが、いよいよもどかしい。
もとより、眼と鼻の間の出来事とはいえ、使者となった以上は、実際も検分し、且つ、先方の言い分をも相当に傾聴して帰らぬことには、役目が立たないものもあろう。しかし、こちらは視察よりは、むしろ問責の使をやったつもりですから、返答ぶりの遅いのに、いよいよ焦《じ》らされる。
「ちぇッ、緩怠至極《かんたいしごく》の奴等だ」
いらだちきった組頭は、この上は、自身|糺問《きゅうもん》に当らねば埒《らち》が明かんと覚悟した時分、黒灰浦の海岸の陣屋の方に当って、一旒《いちりゅう》の旗の揚るのを認めました。
そこで組頭は、再び気をしずめて遠眼鏡を取り直して、その旗印をながめたが合点《がてん》がゆきません。
旗の揚ったことは組頭が認めたのみではなく、配下の者がみな認めたけれど、その旗印の何物であるかは、遠眼鏡のみがよく示します。
上州高崎松平家か、その系統を引くこの地の領主|大多喜《おおたき》の松平家ならば島原扇か橘《たちばな》、そうでなければ、俗に高崎扇という三ツ扇の紋所であるべきはずのを、いま、遠眼鏡にうつる旗印を見ると、それとは似ても似つかぬ、丸に――黒立波《くろたてなみ》の紋らしいから、合点がゆかないのです。
そこで組頭は、またも配下の一人に遠眼鏡を渡しながら、
「あの旗印はありゃ何だ、君ひとつ、よく見当をつけてくれ給え」
「なるほど」
それを受取った配下の一人が、しきりに考えこんでいると、組頭が、
「高崎の紋ではないじゃないか」
「仰せの通りでございます、丸に立波のように見えますが」
「その通りだ、拙者の見たのも丸に立波としか見えない、が、丸に立波はどこだ」
「左様でございます」
彼等残らずが一つの旗印を見つめて、不審の色を、いよいよ濃くしてしまいました。
最初には掲揚されていなかった旗じるし、多分時間から言ってみると、これはさいぜん、詰問にやった配下の者の交渉の結果であろう、その交渉の結果、彼等はこの旗印を掲揚することになったと思われるが、掲げられてみるとこちらからは、それがいっそう不可解の旗印となって現われてしまいました。高崎松平も、大多喜松平も、どう間違っても、丸に立波の紋を掲げるはずはないのだから、ここで徒《いたず》らに当惑するのも無理がないと見える。しかしもう少し落ちついて、この丸に立波の旗印から考えて行ったならば、多少思い当るところがあったかも知れないが、この一隊は、最初から意気込んでおりました。
つまり、何藩にあれ、何人にあれ、われわれ幕府の軍艦奉行の手の者をさし置いて、その面前で沈没船引揚作業を行うというのが、軍艦奉行というものを無視しているし、ことに当時の軍艦奉行が凡物ならとにかく、日本全国に向って名声の存するところの、勝安房守というものの威光にも関するという腹があったのだから、安からぬことに思い、親しく出張して、一つには彼《か》の出しゃばり者に、たしなみを加え、一つには使者に遣《つか》わした配下の者どもの緩怠を屹度《きっと》叱り置かねば、役目の威信が立たぬようにも考えたのでしょう。
この一隊は、測量をそっちのけにして、勢いこんで浜辺を進みました。
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