ろん、これだけの仕事を、人目に立たないようにやるわけにはゆきません。
 すでに人目を避けずにやるということになれば、浦と、港と、界隈《かいわい》の人目を、ここへ集めるの結果になるのは当前です。
 何も知らぬ浦人《うらびと》は、幕府から役人が来て、天下様の御用で、この引揚工事が始まるのだとばかり思うていました。
 そう思うのも無理はありません、かりそめにも、これだけの工事が、一私人の力でできるはずはないのですから。もし、有力な一私人の力でやるならば、官辺の十分なる諒解を得た後でなければ、かかれないはずです。
 この点において、駒井甚三郎の準備に、抜かるところは無いか?
 それがあった日には、工事半ばで、たとえ目的の機関を半分まで引揚げたところで、また陸上まで辛《かろ》うじて持ち上げたところで、官憲の手に没収されてしまうにきまっている。
 獲物《えもの》を没収されるだけならいいが、今時、こんな無謀な工事をやり出す御当人その者の、身の上があぶないではないか――
 駒井ほどの男が、あらかじめ、その辺の如才がないということはあるまい、ここを管轄するところの領主とか、代官とかに、相当の諒解を得た後でなければ、これはやれまい。
 果して、工事に着手すると共に、海岸は町の立ったような人出になり、物売店《ものうりみせ》まで盛んに出張する有様となったけれど、不思議にも、この土地の領主、或いは支配者の手から、なんらの故障も出る様子がありません。
 どうかすると、役人らしいのが、姿を見せることもあるが、それはむしろ引揚工事の方へは近寄らないで、見物に来る民衆に間違いのないように、世話を焼いているくらいのものですから、泰平無事です。
 駒井甚三郎は、例の軽快な洋装で、自ら陣頭に立って、まず引揚機具の取調べから、人員の手わけを指図しました。
 引揚機具といっても、そう完全なものがあるはずはなく、従来の漁具、船具を、うまく利用応用したのと、多少の意匠を以て新調した程度のもので、人員は皆、多くは浜辺の漁師連であります。
 次に潜水に得意なもの数名を抜擢《ばってき》しました。
 必ずしも船全体を引揚げるのが目的ではなく、機関の一部を取外して持ち出しさえすれば、目的は達するのだが、しかし場合によっては、船全体をある程度まで浮かせることの方が、内部へ潜入して、機関の一部を持ち出すよりも容易なこともある。
 まずマドロス君を先陣として、一応、海をくぐって、その勝手を見届けて来るということが、彼等の第一の使命でありました。
 これらの潜水夫は、おのおのこの浜辺において名誉のものであるのみならず、どうも、この浦ではあまり見かけない、房州の南端あたりから連れて来たものであろうと思わるる海女《あま》が二人まで加わっておりました。
 これらの海人《あま》を載せて、船の沈下している海上まで運ぶべき介添船《かいぞえぶね》は、海岸に待っている。
 浜辺では、今、幾カ所も盛んに火を焚《た》いて、炎々たる焚火の前に、仁王の出来そこないのようなのが立ちはだかって、暖を取っている。
 一方には、その炎々と燃える焚火の中へ、しきりに小石を投入して焼き立てている者もある。

         五

 これより先、海鹿島《あじかじま》から伊勢路の浦へ、上陸した御用船の一行がありました。
 これも役人は役人だが、ただの役人ではない。軽装して、測量機械を携え、日の丸の旗を押立てたところを見ると、どうしてもこれは幕府の軍艦奉行の手であるらしい。
 この一行は、しかるべき組頭《くみがしら》に支配されて、都合八人ばかり、測量器械をかついで歩み行く、つまり軍艦奉行の手の者が、海岸検分の職を行うべく、この地点に上陸したものでしょう。
 ところで、とある小高い岩の上へ来て、組頭の一人が遠眼鏡をかざした時に、黒灰浦の引揚作業の大景気を眼前に見ました。
 それは肉眼でも見えるほどの距離を、かねて地勢をそらんじているところではあるし、その群集と、群集の中での作業、これから何事に取りかかろうとするのだか、職掌柄それを眼下に見て取ってしまったから、組頭の顔の色が変りました。
 不興極まる気色《けしき》を以て、遠眼鏡を外《はず》し、部下の者を顧みて、
「おい、あれは何だ」
と一人に言いました。
「左様でござります」
 部下の一人は、一応その人だかりの方をながめてから恐る恐る、
「高崎藩の手の者が、黒船を引揚げるといって騒いでおりました」
「ナニ、高崎藩で黒船を引揚げる?」
「左様でございます、先年、あの黒灰浦に、多分オロシャのであろうところの密猟船が吹きつけられて、一艘《いっそう》沈んでしまいました、密猟船のこと故《ゆえ》に、船を沈めてそのままで立去りましたのが、今でもよく土地の者の問題になります、それを今度、高崎藩が引揚
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