した。二人は、砂へ足を吸いつけられたように突立って、件の怪物を遠目にながめ、次に来《きた》るものは恐怖であります。
 恐怖とはいえ、それは青天白日のことではあり、呼べば答えるところに、人間の影もあるという安心から、恐怖の次に逃走とはならず、恐怖に加うるに好奇を以てして、海中を見るの余裕があります。
 滑稽といい、真剣といい、驚異といい、好奇といい、また恐怖という、要するに一つのものの異なった見方であります。
 これより先、房州の海辺ではお杉のあまっ[#「あまっ」に傍点]子が、前世紀の海竜《うみりゅう》を発見して、海岸一帯に一大センセーションを巻き起したこともありました。
 今や、前にいう通り、青天白日のことであり、勇敢にして、海に慣れた二人の少年は、あの時のお杉のあまっ[#「あまっ」に傍点]子ほどには狼狽《ろうばい》と、醜態とを現わしませんでした。少なくとも、恐怖と、好奇とを以て、前面に横たわる怪物の正体を見届けようとして、
「何だい、ありゃ」
「鮪取《まぐろと》りの善さんじゃねえけえ」
「善さんは、あんなに頭の毛が赤かあねえぞ、それに、もっと面《かお》の色が黒《くれ》えぞ」
「今、へっこんだから、もう一ぺん見てえろ、出て来るところを見てえろ、善さんだか、そうでねえか、見てえろ」
 二人は一途《いちず》にその海の面《おもて》を見入ります。
 それはマドロス氏が、また浮袋を離れて海に没入した瞬間に於て、次の浮揚期間を待つものでしたが、それでも彼等は、怪物とも、化け物とも見ないで――それを村の鮪取りの善さんなるものと比較対照していたが、浮び出でた時は、決して鮪取りの善さんなるものではありません。
 それはむしろ、彼等もその通りに期待していたのですが、再び現われた瞬間を見ると、鮪取りの善さんなるものとは、あまりに相違の甚《はなは》だしかったものですから、二人はあっと仰天し、
「善さんじゃねえ、善さんじゃねえ――大江山のスッテンドウジだ」
 かくて二人は、釣竿と、ビクとを宙にして、面《かお》の色を変えて走り出しました。
 この二人の少年は、町の方に向って走りながら、宣伝をはじめました、
「黒灰の浦にスッテンドウジが来ているよ」
 それを聞く少年少女らは、恐怖に打たれて耳をそばだてたが、大人連はいっこう取合いません。
「大江山のスッテンドウジが、黒灰の浦に来ているのを見て来たよ、ほんとうに嘘じゃねえんだよ、こうして泳いでいるところを……」
 二人の少年は、力を極めて、自分たちの目撃して来たことの真実なることを証明せんとしたが、それらは、少年同士の好奇と、恐怖を催すだけで、大人たちにとっては、訴えれば訴えるほど、笑止《しょうし》の種となるだけでした。
「スッテンドウジは、山にいるもので、海へ来るはずのものじゃねえよ」
 けだし、スッテンドウジというのは、大江山の酒呑童子《しゅてんどうじ》のことで、それはとうの昔に、源《みなもと》の頼光《らいこう》と、その郎党によって退治されているはずのものです。しかしながらその面影は絵双紙に残って、彼等少年たちの印象に実在しているのでしょう。
 かくて、少年たちは、好奇より恐怖が多いせいか、行って見ようとはいわず、大人たちはてんで一笑に附して問題にしないから、根限《こんかぎ》りの二人の宣伝が、ここでは全く無効になりました。そこで少年たちは、自分たちの現に見て来た事実が信ぜられないのを、自分たちの信用が剥落《はくらく》したかの如く残念がり、その宣伝を有効ならしめようとあせりつつ、榊新田《さかきしんでん》の陣屋跡までやって来て、陣屋の中をのぞき込みました。
 榊新田の古陣屋は、高崎藩が、この海岸の守護を承って、千人塚に砲台を築いた時分の名残《なご》りで、塀崩れ、屋根破れていたのを、昨今になって修理して、その中に人が働いています。
 二人の少年が、のぞき込むと、車大工の東造爺《とうぞうじい》が、轆轤《ろくろ》をあやつっている。
「爺《じい》、大変なことがあればあるもんだぜ、黒灰へスッテンドウジが来ているよ、爺、お前《めえ》、早く行って見て来な」
 車大工の東造爺は、けげんな面《かお》をして、
「え、スッテンドウジが――スッテンドウジが黒灰の浦へ来たって?」
 東造爺だけが、少なくもこれだけに受入れてくれたのに、二人が力を得て、
「頭の毛の赤い、眼のこんなにでけえ、絵に描いてある通りだよ!」
「へえ……」
「爺、早く行って見な。行くんなら、鉄砲を持って行ったがいいかも知れねえぜ」
「は、は、は、は」
 かわいそうに、せっかくここまで来て、東造爺までがまた一笑に附しはじめました。
 少年たちは、見るも無残にしょげ返ったが、それでも、
「は、は、は、は」
と第二笑に附した東造爺は、ほかの者がしたように冷たいものではな
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