事件がまさに起っているのでもなく、現に起りつつあるのでもなく、これから起ろうとするのでもなく、今や盛んに起りつつ、消えつつしているのだから、出没しているというよりほかは、言いようがないと思われます。
それは一個の怪物――頭の毛の赤い、素敵に大きな眼鏡《めがね》をかけた男性の怪物が、黒灰浦の真中の海へ深く潜《もぐ》り込んだかと思うと、暫くあって浮き上り、浮き上ると共に、あっぷあっぷと息をついて、浮袋にだきついて、きょろきょろと見廻し、巌が笑うような笑いを一つしてから、また浮袋を離れて、海の深いところへ没入したかと思うと、暫くして浮き上り、仰山《ぎょうさん》な顔をして、自分がいま沈み入ったところの海の中を見入りながら、あわただしく息をきって、後生大事に浮袋にしがみつき、そうして暫くしてまた勃然《ぼつぜん》として、海の中に没入して姿を見せないでいるかと思うと、せり出しのように浮き上って来て、仰山な眼をして、もぐり込んだ海の中を見込み、息と水を切り、後生大事に浮袋にしがみついている。
その有様が、おのずから珍無類の滑稽になっているのであります。
いったい、滑稽というものは、企《たくら》んでそういう仕草《しぐさ》をして、人を笑わせんがために存在することもあれば、当人は大まじめ――むしろ命がけの真剣さを以てやっていることでも、はたで見ると、どうしても滑稽とよりほかは見られない悲惨なる現象もある。
また当人も滑稽と思わず、それを滑稽として見るべき看衆《かんしゅう》の何者もない時にも、挙動そのものが、滑稽になりきっていることもある。
お気の毒なことには、天地間にその滑稽を見て笑い手が無い、まさに滑稽の持腐れ。ここに出没している御当人と、その為しつつあることが、まさにその滑稽の持腐れに似ている。
滑稽の持腐れも、かなり楽な仕事ではないらしい。
化け物なら知らぬこと、人間である以上は、二分間より以上の潜水は至難のことでなければならない。ところがこの滑稽なる出没は、どうかすると二分間以上沈んでは、また浮き上ることもあるから、その都度都度《つどつど》の呼吸はかなり切迫しているらしく、浮袋にしがみついた瞬間は、全く命からがらと見なければならないのですが、それがどうも、滑稽としか見えないのは、この人物の持味《もちあじ》の、幸と不幸との分れ目でしょう。
見る人が無い、笑う人が無いから、この滑稽の持腐れは思いきって発揮される!
浮き出す度毎《たびごと》に、その無恰好《ぶかっこう》に大きな頭の赤毛の揺れっぷり、苦しがって潮を吹く口元、きょろきょろと見廻す眼鏡の巨大なのと、その奥の眼の色の異様なのも、物それを少しも怖ろしくしないで、いよいよ滑稽なものにする。
これぞ前名のウスノロ氏――今や駒井造船所の新食客マドロス君その人であると知った時には、見る人の口が、唖然《あぜん》としてふさがらないことと思います。
これは、ジャガタラ薯《いも》のマドロス君に間違いはないのであります。
マドロス君が海の中に出没しているということは、炭焼氏が山の中を徘徊しているのと同じことに、あたりまえのことなのですが、本来、あちらの方の、洲崎の留守役に廻っていることとばかり信じきっていた人が、早くもここに先廻りをしている順序となっているのですから、知らない人は、ちょっと面食《めんくら》うかも知れない。
だが、それとても、有り得べからざることでもなんでもありません、マドロス君が先発して、こちらに来ている――駒井氏と、田山氏が、後詰《ごづめ》として、そちらへ出張して行く――と見れば不自然でも、意外でもなんでもないことですが、ただマドロス君の海の中に於ける独《ひと》り相撲《ずもう》が、あまりにふんだんに滑稽の持腐れを発揮していただけに、前後の聯絡が、少しばかり意外の感を起さしめるというに過ぎないでしょう。
しかしながら、天下に有用なものでも、無用なものでも、有るものが発見されないという例はなく、発見せられて、その存在の価値を評価されないという例も、極めて少ないことであります。
せっかく、ここで多量に発揮されていた滑稽の持腐れも、やがては認めらるるの時が来ました。
それは駒井、田山の両氏がここに到着した当然の結果ではありません。無論二人が到着すれば、マドロス氏の演ずる滑稽の、決して単なる滑稽にあらざる所以《ゆえん》も、明白に分明することと思いますが、滑稽が、奇怪を以て認められたのは、それより以前、別の人によってなされたことでありました。
竿と、ビクとを携《たずさ》えた漁師の子供が二人――夫婦《めど》ヶ鼻《はな》の方から、ここへ通りかかって、ふと件《くだん》の滑稽なる持腐れを発見した第一の人となりました。
この二人にとっては、滑稽がまず非常なる驚異として現わされま
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