、若い船頭の提案はケシ飛んでしまいましたが、存外わるびれず、
「ほんとうに、それもそうでございますねえ、神様へ参詣する前に遊女屋なんぞへ上っては、罰《ばち》が当ります」
「その通りだ」
「先生、あんたは剣術の方の先生でございましょう、それで鹿島神宮へ御参詣をなさるんでございましょう。何しろ、香取、鹿島の神様ときては、武術の方の守り神様でございますからなあ」
 若い船頭は、今まで旦那扱いで来たのが、ここで先生になって、その先生も、鹿島詣《かしまもうで》をする武者修行の勇士ときめてかかったらしい。
「うむ」
 白雲が頷《うなず》きました。白雲が画家と見られないで剣客と見られることは、今に始まったことではありません。
「剣術は何流をおやりになりますか。水戸には、なかなか使える先生がありますよ、水戸へおいでになりましたか」
「まだ水戸へは行かん、土浦にはどうだ」
「左様ですね、土浦の方のことは委《くわ》しく存じませんが、香取様の前には天真正伝神刀流、飯篠長威斎先生のお墓がございます、飯篠先生の御子孫の方もいらっしゃいます」
「ああ、そうだ、そうだ、どちらもお訪ねして来たところだ」
「左様でございますか――おやおや、舟が横っ走りをはじめやがった」
 舟のへさきが蘆荻《ろてき》の中へ首を突っこみそうになったから、若い船頭は、
「旦那、どうも御馳走さまでございました」
 杯をおさめ、棹《さお》を取り上げて、舟を立て直しました。
 舟は満々たる水の中を辷《すべ》り行く。忽《たちま》ち前後左右を真菰《まこも》で囲まれたかと思うと、一路が開けて、一水が現われる。不意に真菰のうらが騒ぎ出したかと見ると、菅笠《すげがさ》が浮き出している。笠ばかりで姿は見えないが、唄は真菰刈りの若い女の口から出る。そうかと思えば、唄は無くて盲目縞《めくらじま》に赤い帯の水国の乙女が、ぬなわ舟に棹さして、こちらをながめているのにでくわす。
 田山白雲は、興に乗じて画嚢《がのう》をさぐり、矢立を取り出して写生図を作りはじめました。
 そこで若い船頭も、興を催してか、或いは興を助けるつもりでか、潮来節をうたい出したのが、白雲の耳を喜ばせる。
 その途端に、向うの真菰の中から、すうーっと辷り出して来た小舟の中に、例のめくら縞に赤い帯、青い襷《たすき》で、檜笠をかぶった乙女が一人――乙女と言いたいが、もう二十四五の、かっぷくのいい、色つやの真紅な、愛嬌たっぷりなのがすれちがいざまに、若い船頭と面《かお》を見合わせ、にっこり笑いながら棹を外《そ》らして、若い船頭を突っつく。
「あ、痛えな」
 若い船頭が、仰山な叫び方をすると、
「いたけりゃ辛抱していろよ、誰も巳之《みの》さんをおん[#「おん」に傍点]出す人はねえだから」
「それじゃ、おっかの舟貸すか」
「乗れねえに、持ち上げろよ」
「ナニョー、しんだ」
「うるせえな、このオベラカシ」
 白雲の耳には、何ともわからないざれごとを言い合って、舟は左右にわかれました。
         十五
 大船津の浜へのぼると、そこで田山白雲は、物珍しい一行を見てしまいました。
 数十人の団体が、手に手に小旗を持って船を待っている。その小旗を見ると、どれにも、これにも、「十五文」と記してあるのがおかしい。
 団体の中に、一人、頭へ置手拭をして、突袖《つきそで》ですましこんでいる若いのが、これが一行の大将株と覚しく、これの襟《えり》にさしてあった旗だけが少し違い、
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「十五文、橋庵先生《きょうあんせんせい》」
[#ここで字下げ終わり]
としるしてあります。そうして、その周囲《まわり》を取りまいて、扇であおいでいるのが、見る人が見れば見たような面《かお》と思うも道理、これぞ江戸の下谷の長者町で、道庵先生の両腕とたのまれたデモ倉と、プロ亀でありました。
 さては読めた。倉と、亀とが、道庵先生の不在に乗じて裏切りをし、ここに橋庵先生というのをもり立てて、その向うを張らせ、道庵の十八文よりは三文だけ安くして、つまり、それだけ大衆的であるとの看板の下に、あっぱれ一謀反を企《くわだ》てたものと見えます。
 そうとは知らぬ道庵先生と米友、今頃はもう名古屋の市中に入って、また出来損いの「大岡政談」でも見ていることだろう。
 デモ倉や、プロ亀が、あっぱれな小刀細工をしようとも、そこは大腹中の道庵先生のことだから、蚊の食ったほどにも思うまいが、宇治山田の米友というものが存在している以上は、倉公、亀公いいかげんにしないと、耳ったぼにカーンと来ないとも限らないぞ、ほかと違って米友のは、手練だから痛さが違うぞよ。
 そんなことは、知ったことでない田山白雲――アイロ、コイロの社《やしろ》、鎌足公《かまたりこう》の邸跡、瑞甕山根本寺《ずいおうざんこんぽ 
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