らが警告するのか知れません。
この時、轟然《ごうぜん》として、天地の崩れる音が起りました。
それと共に浜辺にいた村民漁夫たちが一時に仰天して、蜘蛛《くも》の子を散らすように走り出しました。つづいて殷々《いんいん》轟々と天地の崩れる音。天地の崩れるもすさまじいが、それは海に浮んだ黒船が、大砲を打ち出したものであります。
さすがの幼稚な石女木人のいさかいも、この音に驚かされないわけにはゆきません。
二人はいさかいをやめて、黒煙|濛々《もうもう》たる黒船をきょとん[#「きょとん」に傍点]とながめている。
十四
津の宮の鳥居の下から、舟をやとうた田山白雲は、鯉のあらい、白魚の酢味噌を前に並べて、行々子《よしきり》の騒ぐのを聞き流し、水郷の中に独酌を試みている。
船は、どこまでも流れにまかせて進むから、これは鳥居前から、十五島を横断し、十二橋をくぐって潮来《いたこ》へ出ようという目的ではないらしい。
利根の流れをズンズンと浪逆浦《なみさかうら》へ出て、多分、鹿島の大船津《おおふなつ》を目的とするものだろうと思われる。つまり、香取の神宮へ参拝して、潮来出島はあと廻しにして、鹿島神宮を志すものらしい。
中流にして、田山白雲は、杯《さかずき》をあげて船頭を呼びました、
「おい、若衆《わかいしゅ》、一つやらないか」
つまり、利根川の舟の船頭さんであるところの若いのに、杯をさしたものです。
「こりゃあ、どうも」
と、その若い船頭さんが恐縮する。この兄いは、ちょっと、いなせ[#「いなせ」に傍点]なところがある。恐縮しながら水棹《みさお》を置き、鉢巻を取りながらやって来ると、
「兄い、おめえは土地の人か」
田山白雲が、調子をおろして尋ねてみますと、若衆《わかいしゅ》ははにかみながら、
「へえ、これでも土地っ子には土地っ子ですが、少しよその方へ行って遊んで参りました」
「そうだろう、おめえ、なかなか色男だ、津の宮の茶店でも女共が、お前のことをなんのかんのと騒いでいた」
「恐れ入っちゃいます……ではお辞儀なしに一ついただきます」
兄いは、白雲のくれた杯を、頭をかきながらいただいて、一杯飲みました。
「遠慮なくやってくれ、舟なんぞは流れっぱなしでもかまわねえ」
「どうも、済みません」
「返すには及ばねえ、いけるんなら、かまわず、盛んに飲み給え」
「へ、へ、へ、どうも」
白雲から酌《しゃく》をしてもらって、恐縮しながら二杯三杯と飲んでしまう。その飲みっぷりが相当にものになっているから、白雲も面白いことに思い、
「時に、お前のその絆纏《はんてん》に染めてある仮名文字は、そりゃ何じゃ。さっきから、読み砕こうと思って再三苦心したが、どうもわからねえ、何のおまじないだい」
「へ、へ、へ、これでございますか」
白雲が、さいぜんから気にしていたことの一つは、この若い者の背中に、仮名文字が一列に染め出されている。それは仮名文字だから、横文字と違って、読むに困難はないが、文句そのものが意味を成さないから、白雲ほどのものが思案に余っているらしい。
「これですけえ」
若い船頭には、なまりと外行《よそゆき》の言葉とがチャンポンに出る。
「もっとよく、こちらを向いて見な」
「はい、はい」
背中を向けると、若い船頭の印絆纏《しるしばんてん》――
[#ここから1字下げ]
「ゆききんのぶみよ」
[#ここで字下げ終わり]
と染めてある、片仮名にしてみれば、「ユキキンノブミヨ」となる。
白雲はそれをながめながら、最初の通りに思案の首をひねる。どう判断しても、この一行の文字の意味がわからないらしい。
「へへ、へへ、これはね、旦那様、潮来の竹屋の女中さんの名で、こうして、わっしにみんなして、気を揃《そろ》えて、毎年一枚ずつくれるんでございますよ」
「なるほど、そうか」
そこで、白雲が、これは「ユキキンノブミヨ」と一行に読んでしまうからいけない、ゆき、きん、のぶ、みよ、と四つにわけて、四人の名にして読めば、手もなく解釈がつくのだとさとりました。
ところで、この若い船頭さんが、白雲に向って、これをきっかけに、よからぬ事をすすめる。
よからぬ事というのは、どうです、旦那、これから潮来へおいでになって、菖蒲踊《あやめおど》りを御見物になりませんか――ということです。
というのは、単に如才《じょさい》ないだけではなく、この提案が成功すれば、二重の役得があるという見込みが十分でしたから、御意によっては、鹿島へ行く舟のへさきを即座に変えて、潮来へじか[#「じか」に傍点]附けにして差上げますという、透《す》かさないかけひきを、白雲は頭から受けつけず、
「怪《け》しからん、神様へ参詣《さんけい》する前に、遊女屋へ行く奴があるか」
これで一たまりもなく
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