ともにこうして悠々《ゆうゆう》と出馬のできるにはできるように、相当の後顧《こうこ》の憂いを解決しておいたればのことで――子供ではないから、その辺に抜かりのあるべきはずもなかろうではないか。
 ただ一つ、思われるのは例の茂太郎という小倅《こせがれ》が、天馬往空の悪い癖で、今度は河岸《かし》をかえて東北地方へでも飛び出し、兵部の娘がそれを追っかけて、例の夜道昼がけを厭《いと》わぬ出奔《しゅっぽん》ぶりを発揮したために、二人が取押え役としてここまで出向いて来たのかと、ちょっと想像も働くが、それにしても二人の落ちつき加減は、駆落者を追ったり、追われたりする空気ではない。
 そうして、おのおの談論を交わしながら馬を進めて行くうち、駒井が、ちょっと手綱《たづな》を控えて、海岸の一点を見つめました。
 さては、また例の平沙《ひらさ》の浦のいたずらな波がするすさび[#「すさび」に傍点]のように、女軽業《おんなかるわざ》の親方の身体《からだ》をでも、そっと持って来て、その辺の砂場へ捨てたのか、そうでなければ、またジャガタラ芋《いも》の一俵もころがっているのか。
 駒井は、早くも馬からヒラリと飛び下りて、波打際に小走りに走って行ったものですから、田山が眼を円くしていると、駒井の拾い取ったのは女軽業の親方でもなければ、ジャガタラ芋の根塊《こんかい》でもありません――それは通常のビール罎《びん》一本です。ビール罎の上に赤く十の字が書いてある。通常のビール罎とは言いながら、その時代においては、ビール罎は、決してありふれたものではありません。
 けだし、日本に於ては、英国人コブランという者が、明治の初年、横浜にビールの醸造所を設けたくらいですから、その以前に入って来ているには相違ない。その道の人は、相当に味を知っているに相違ないから、自然ビール罎なるものも、一部の方面においては、そう珍奇な物ではなかろうが、田山白雲には目新しいものでありました。
 本来ならば白雲もずいぶん飲む方ですから、境遇によっては、すでに、もはや馴染《なじみ》になりきっているかも知れないが、不幸にして彼は貧乏でしたから、外国の酒にまで手をつける余裕がなかったかも知れません。
 よし、その余裕があったからとて、彼の気性では、夷狄《いてき》の酒なんぞに、この腸を腐らせることを潔《いさぎよ》しとしなかったかも知れない。
 そこで彼は駒井の挙動をも不審なりとし、そのビール罎なるものをも珍しとして、馬上から問いかけました、
「何です、それは」
「西洋酒の罎です」
「イヤに黒い、下品なギヤマンですな」
と、一応は夷狄のものをケナしてみるのも、一つの癖かも知れません。
「西洋酒といっても、そう上等な酒ではありません、といって下等というわけでもないです、上下おしなべて飲みます、ビールというやつで、麦の酒です、麦酒《むぎざけ》です」
「ははあ、麦の酒ですか、麦の酒じゃ、熱燗《あつかん》にして飲むわけにゃあいきますまい」
と田山が言いました。
 それは、ビールというものが、燗をして飲む酒でないということを知って、そう言ったのではありません。
 酒というものは本来、米の精であればこそ、これに燗をして、キューッと咽喉《のんど》に下すことに趣味があるのだが、ばくばくたる麦ではうつりが悪い、ばくばくたる麦酒を、燗をして飲むなんぞは、あんまり気が利《き》かないと思ったものですから、偶然そんなことが口走ったのです。
「燗をして飲む酒じゃない、このまま飲むのだが、これは無論空罎です。これについて面白い話は、嘉永六年にペルリが浦賀へ来た時分、アメリカの水兵どもがこの中身を飲んで、空罎をポンポン海の中へ捨てたものです、それが、こんなあんばい[#「あんばい」に傍点]に海岸に流れつくと、浦賀あたりの役人がそれを見て、あれこそ毛唐《けとう》が毒を仕込んで、日本人を殺そうとの企《たくら》みで投げ込んだものだから、拾ってはならない、無断であの空罎を拾った者は、召捕りの上、重き罪に行うべしとあって、人を雇うて毎日流れついて来る無数の空罎を怖々《こわごわ》と拾わせ、これを空屋の中へ積込んで、厳重に戸締りをして置いたものだ」
と言いながら、駒井は丁寧にこれを拾い、懐紙を抜き出して周囲《まわり》の海水を拭い、大切にこちらへ持ち帰りますから、
「毛唐の飲みからしの空罎《あきびん》なんぞを拾って、何になさる」
「見給え――この通り、厳重に封がしてあって、口に符号がつけてある」
「それじゃ、まだ中身があるのですか」
「中身といっても酒じゃない、酒は飲んでしまって、その空罎を利用して、中へ合図をつめて海に流したものです」
「ははあ」
「海流の方向を知るために、或いは何か通信の目的で、そうでない時は、単なる好奇心で罎の中へ、何事かの合図、或いは通信
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