てはいるが、それでも、いま、眼の前に現われたほどの黒船は、あまり見なかった黒船であります。
木造、螺旋式《らせんしき》、三本|檣《マスト》、フリゲット――長さは無慮二百四五十尺、幅は三十尺以上四十尺の間、排水は、玄人《くろうと》の目で見て三千トンは動かぬところ――
それが悠々《ゆうゆう》として浦賀海峡の真中、江戸の湾口に横たわっているのですから、船を見るに慣れた浦人《うらびと》の眼をも、驚かさないわけにはゆきません。
眼を驚かすばかりでなく、心を戦《おのの》かしむることは、浦々の人が浜辺に出て指さし罵《ののし》りさわぐ面《かお》の色を見ても、明らかです。
もうすでに番所番所から、役向役向に伝えられたに相違ない。昨日出張の目附《めつけ》は、さだめて早馬を飛ばせて江戸へ注進に及んでいる最中でしょう。館山、北条あたりの海上からも、幾多の早舟が飛び出すところを見れば、船手からの注進をも急ぐものと見える。
一方、黒船の方を遠眼鏡で見ると、バッテイラを卸しはじめたようです。
スワこそ、バッテイラで乗込んで来るぞ、うかうかしていた日には、元寇《げんこう》に於ける壱岐《いき》対馬《つしま》の憂目《うきめ》をこの房州が受けなければならぬ。用心のこと、用心のこと。
こちらに大砲は無いか、砲台の守り手に抜かりはないか。しかしまた、いかに毛唐《けとう》だって、単に薪水を求めに来たらしいのを、無暗にぶっ払うも考えものだ。尋常に交渉に来たら、尋常に挨拶するのが人間同士の作法だろうじゃないか。だが、言葉がわからない。言葉が通じないために、飛んだ行違いになりがちである。どうしたものだ――
そうそう造船所の殿様――は、外国の言葉を知っておいでなさる、うむ、それよりも、あすこには、このごろ本物がいた、本物の毛唐人が来ていた、いい幸いだ、あれを立合わせろ、あれを立合せて、聞くだけは聞いてやってからのことがいいじゃないか、そうして、どこまでも図々しければ図々しいように、こっちにも出ようがあろうというものだ。
「ナニ、あいにく、造船所には殿様も、本物もいないって……みんな揃ってどこへか出かけてしまったって、冗談じゃない、こういう時は、ペロが手柄を現わすじゃないか。ちぇッ、何だって今日に限って、留守なんぞになるんだ、ちぇッ」
海辺に立って騒ぐもののうち、気の利《き》いたのは、気が利き過ぎて、
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