の娘は、ちょっと横を向いて睨《にら》む真似《まね》をしながら、
「なんてこま[#「こま」に傍点]しゃくれたことを言うんでしょう、お前の言うこととは思えない」
「だって、お嬢様は、以前は一晩でも、あたいがいなければ淋しがったり、恋しがったりしていたくせに」
「まあ、いいからお放し……ね、いい子だから、あんまり、しつっこ[#「しつっこ」に傍点]いと人に嫌われますよ」
「ねえ、お嬢さん、あっちへ行きましょうよ」
「どこへさ」
「あっちへ」
「あっちとはどこさ。まあ、この絵をみんな見てやりましょうよ、知らん顔をして、こんなにかき散らしているのが、ホントに憎らしいから」
「あたいは絵なんか見たくない、それに留守の時に、人の物をだまって見るなんて、悪いから」
「だって、お前、向うだって、だまって人の姿をうつしたりなんかして、知らん顔をしているんだもの……おたがいさまよ」
「行きましょうよ、あっちへ」
「どこ[#「どこ」に傍点]だっていいじゃないの」
「でも、居慣れたところの方がいいでしょう」
「やんちゃな子だねえ……」
 その時、窓の下の海岸を、人が走り出して、
「鯨だ、鯨だ、鯨が来たよ!」
 室内の二人は、この声におどかされてしまいました。

         十三

 この近海へ、鯨が見えたということは珍しい報告である。珍しければこそ、人があんなに騒いだのだろうと思われる。
 二人もまた、この物置から走り出して、海辺へ出て見ると、鯨だ、鯨だと言ったのは多分、「黒船《くろふね》だ、黒船だ」と叫んだその聞きそこねか、そうでなければ、早まった人たちの間違いだろうと、一目でそうわかりました。眼の前に、一艘《いっそう》の大きな黒船が来ている。
 眼の前といっても、それは海上かなりの遠くではあるが、ここからは眼と鼻の先、浦賀海峡の真中に、三本マストの堂々たる黒船が、黒煙を吐いたままで錨《いかり》を卸している。それを見て最初叫んだものが、「黒船、黒船!」と言ったのを、寝耳に水のように聞いた漁夫《りょうし》たちが、「鯨だ、鯨だ!」と間違えたのだろう。
 黒船と聞いて、人心が動揺しないわけにはゆきません――鯨ならば、七浦《ななうら》をうるおすということもあるが、黒船では、当時の日本国を震愕《しんがく》させるだけの価値はある。
 尤《もっと》も、この辺の地点では、黒船を見ることにかなり慣らされ
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