かえって地団駄《じだんだ》を踏むのもある。
 だが、バッテイラは下りたには下りたようだが、こちらへ向って、漕ぎ寄せられるような様子もありません。
 黒船は、相変らず悠然《ゆうぜん》として浮んでいる――
 兵部の娘と、茂太郎は、これを他事《よそごと》のようにして、黒船を右にしながら、散歩気取りで、海岸をずんずん南の方へ歩いて行きました――先日海竜が出たあの海岸の方へ。
 二人だけは人心の動揺に頓着なく、黒船をよそに、海岸をふらふらと歩いて、とどまるということを知らないらしいから、放って置けば、また海へ没入してしまうでしょう。
 それに、天気が申し分ない。鮮麗な秋の空、目立たぬほどの積雲が、海上二マイルばかりのところに茫漠《ぼうばく》としている。今日も終日、海上も無事だし、明日のこともまず心配はない。
 でも、今日は二人とも感心に、止まるところを知っているらしい。
 汐見《しおみ》の松のところまで来ると、兵部の娘は、松の根によりかかってしまうと、茂太郎は、少し離れた石の上に腰をかけて、松の枝の間、兵部の娘の振袖の垂れ下っているところから黒船を見ている。
 そこで勢い、即興の出鱈目《でたらめ》が一首、なければならないことになる。
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昔より今に渡り来たる黒船
縁がつくれば鱶《ふか》の餌《え》となる
ハライソ、ハライソ
サンタ、マリヤ
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 兵部の娘は、松の木から海を背にしているのですから、黒船を見ることができません。
 小春日和に、散歩気分の充実した面《おもて》を汗ばませて、軽い疲れを休ませながら、
「茂ちゃん、踊ってごらんな」
と言いました。
「踊りましょうか」
「踊ってごらんな、誰も見る人はないから」
「そんなら踊りましょう」
「その砂の上で、少ししめり[#「しめり」に傍点]のあるところがいいでしょう、はだしにおなりなさい、足あとが砂の上につくから。やわらかでいいでしょう」
「ええ、乾いた砂の上より、こっちの湿ったところの方が踊りいいね」
「さあ、誰も見ていないから、思いきって踊ってごらん」
「ええ」
 茂太郎は誰も見ないところで、思いきって踊ることの自由を与えられたことに、至極の満足らしく意気ごんで、左の肩をぬぎました。
 その場合、甚《はなは》だ窮屈と不釣合いとを忍んで、相変らず般若《はんにゃ》の面は放さないのです。
[#
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