って、
「新助さんかね」
「旅の者でございます、少々尋ねる人があって、これへ入り込みました」
「何、たずねる人があって、いまごろ、今時分、ここまでおいでになった……」
「御免下さい」
 北原賢次が土間へ下りて、ありあわせの草履《ぞうり》を突っかけて、戸をあけにかかった時、ふと本能的に、自衛の念にかられないでもありません。
 秋からかけて、冬籠《ふゆごも》りでさえ異例であるこのところへ、新たに入り込み来《きた》る人、しかも、まだ深くはないと言いながら、この雪、この夜、人を尋ねるといって来たその人の正体が、油断ならない。尋ねられるほどの人がここにいるか、もし目ざされるとしたら、われわれこそとりあえず、その最も注意人物でなければならぬ。
 そうでなければ、いわゆる、狐狸というようなお愛嬌者《あいきょうもの》が、型の如く人間を笑わせに来たのか、ともかくも、相当の心持であけてみる必要がある。ガラリ(戸をあけた音)――
「これはこれは、不時におたずねして済みませぬ」
 それは存外穏かな、まだ若い旅のさむらい。

         四

 宇津木兵馬は、北原賢次に案内されて、例の炉辺《ろへん》までやって来ました。
 そこで池田良斎に引合わされ、北原賢次にも改めて挨拶をする。
 少しばかり話をしてみた時に、兵馬が、これがこの宿の主人か知ら、宿の主人ではあるまい、と感じました。
 それにも拘《かかわ》らず、二人は今、炉にかけた鍋の中から、熟した甘藷《さつまいも》を箸でさして突き出して、盆の上に置き並べ、
「さあ、珍しくもありませんが、一つ召上れ」
と兵馬にすすめました。これはふかしたての薯《いも》ではありません、ゆでたての薯であります。
 珍しくないと、主人側はことわったけれど、この場所では、非常な珍しい物であるのみならず、かなり飢えていた兵馬にとっては、美快なる食慾をそそるに充分でありましたから、やがて辞儀なしにその薯を取って食べました。
 二人もまた、同時にそれを取って食べはじめます。
 蓋《けだ》し、この二人が、今まで炉辺を囲んでいた理由は、この薯の熟するを待っていたものでしょう。そこで今度は、珍客としての兵馬を中心に、食べながら話の緒《いとぐち》が開かれました。
「どちらからおいででござった」
「檜峠というのを越えて参りました」
「して、お国は?」
「数年来、諸国を遍歴して歩きまして、昨日は松本を出発いたしました」
「当地へは、はじめて?」
「全く思いがけぬ旅で、これへ入って参ったと申すよりは、いざなわれて参りました」
「お一人で?」
「中房《なかぶさ》を出る時に、連れが一人ありましたのですが、その連れにはぐれたものですから、それを追いかけるような気分で、つい知らず、この白骨へまぎれ込みました」
「追いかけるような気分で、とおっしゃるのは異様ですな、お連れの方にはぐれてはさだめて御迷惑と存じます」
「連れと言いましても、切っても切れぬ道連れではござりませぬ、ふと中房の温泉で同行を頼まれましたものですから、よんどころなく、一緒には参りましたが、実はどうでもよい道連れだと存じておりましたところ、離れてみて、はじめて自分の責任を感じたようなわけでござります」
「ははあ」
「もしや、この宿へ、婦人を連れた二人のさむらい体《てい》の男が、参ったような様子はございませんか」
「左様、この数日の間には、左様な来客はございません」
「途中、これは見込違いと存じました、これは到底婦人を連れて来る道ではないと、つくづくそれをさとりましたが、引返すのも心残りで、これまで入り込んでしまいました」
「それはそれは。婦人でも、足の達者なものは不可能ということはありませんが、それは季節に限ったものです」
「あなた方は、この土地のお方でございますか、それとも、逗留《とうりゅう》のお客なのでございますか」
と兵馬の方から、良斎と賢次とに、問い返してみますと、
「いや、われわれは土地の者ではござらぬ、これでも外来の客でござるが、その外来の客が、主人|面《づら》をしているようなていたらく。十一月になれば、宿のまことの主人をはじめ雇人に至るまで、家の戸を釘づけにして里へ下るところを、われわれが引受けて、留守居がてらの冬籠《ふゆごも》りでござります」
と答えたから、兵馬はなるほどと思い、なおこの冬籠り連も、必ずしもただものではないらしいと思いました。
「何はともあれ、もう、夜もふけたげに思われます、さだめてお疲れでございましょう、室はこの通りたくさん明いてござるゆえ、しかるべきところをえり取りにしてお休み下さい。それ以前、湯槽《ゆぶね》を御案内いたしましょう」
 北原賢次が、兵馬の疲れを見て取って、またも自分が案内に立ちました。
 好むところの一室を与えられ、夜具も豊かに着せられて、その夜を安らかに寝た宇津木兵馬が、どうしたものか、翌日から頭が重くなりました。おびただしい熱が出たのです。
 原因はどこにあるかわかりませんが、広い意味で、傷寒《しょうかん》の一種といっていいでしょう。それにかなりの心労もありますからな。
 熱が出て、体がわなわなとふるえるものですから、兵馬は、強《し》いて起きない方がよいと思いました。幸い、ここは主人の方で取持ちをしようとも、主人に向って気兼ねの必要のない旅籠屋《はたごや》のことですから、よしよし、今日は寝るだけ寝てやろうと思いました。
 熱もようやく高まるし、体のふるえは、寝ていながら歯の根が鳴るようですが、兵馬は強いて起きないと心をきめたものですから、その中に幾分安んずるの心持もあります。枕元の振分けには、いささか医薬の用意もあるが、それにはまだ手も触れません。
 兵馬が度胸を据えて寝ているところへ、北原賢次がやって来ました。
「おや、御病気ですか、それはいけませんなあ」
と北原は早くも、看病する者のなき一人旅の若者に、まず同情の色を見せて近寄ると、
「少し疲れが出たところへ、かぜをひいたものでしょう、たいしたことはありません」
 兵馬は寝返りを打つと、北原が、
「それは何かと御不自由でござろう、お待ち下さい、拙者がひとつ、出直して看病に来て上げますから」
「それには及びません」
 気軽な北原は、独《ひと》り合点《がてん》をして出て行ってしまいました。
 兵馬は、この辺で起き上ろうと思いました。来て早々、人の厄介になるのは心苦しいと感じたからです。しかし、自分の力で、自分をもてあますほどに、筋肉が結滞しているのを感じました。
 若い兵馬は、病気というものを、外気の傷害と見るよりは、自分の不鍛錬の結果と見ることが多いのです。また、今までの教育されぶりが、ほぼそのように教育されておりました。
 人の意志が緊張し、精神が充実している時には、病気は近づかないはずである。それが衰えるから病気になるのだ。つまり、外気よりも内心に責任を置いているのだから、病気という時には、まず何物より自分の意志の薄弱を恥ずるのであります。
 今も、やはりその廉恥心《れんちしん》から、兵馬は、無理をして起きなければならないと感じたのです。かりそめにも、このくらいのことで、自分で自分の始末ができず、宿へついて早々、人の世話になるということの、いさぎよくないのを恥辱として、兵馬は、北原賢次が再度にやって来るまでに、少なくとも床を離れていなければならないと感じました。
 しかし、身を動かしてみると、意外に自分の身体《からだ》のダルさ加減の、いつもと違って甚《はなは》だしいのに驚かされ、起きて衣裳を改めてはみたが、ほとんど自分の身体が持ち切れないほどのめまいを感じましたから、じっと心を締めて、形ばかりの床の間に向って、結跏《けっか》を組みはじめました。
 ここで兵馬は衣裳を改めて、床の間を前に端坐して、この、まだるい、悪寒《おかん》の、悪熱《おねつ》の身を、正身思実《しょうじんしじつ》の姿で征服しようと企《くわだ》てたのらしい。
 しかし、寝ていてあれほど悪かったものが、起きて襟《えり》を正して端坐してみたからとて、そう急に納まるべきはずもありません。そう急になおるほどのものとすれば、誰も好んで寝ているものはないでしょう。兵馬はあらゆる緩慢悪寒の不快をこらえて、正身の座を崩しませんでしたが、五体のわなわなとふるえるのを如何《いかん》ともすることができません。
 ここで熱い湯を一杯も飲んだなら、そうでなければ冷水の一つも振舞われたら、時にとってのよい点心《てんじん》になるかも知れない、と思ったけれど、あたりに鉄瓶《てつびん》もなければ、火鉢もない――ああ、やっぱり寝ていた方がいいなと思いました。

         五

 そこへ、
「ご免なさいませ」
と入って来たのは、北原ではなく、髪を洗い髪にして、後ろに結んだ妙齢の一人の女の子であります。
「はい」
「おや、もうお起きあそばしましたか、御病気だそうでございますが、およろしうございますか」
「ええ、どうやら、よくなりましょう」
 どうやら、よくなりましょう、というのは、かなり苦しい言いわけでしたが、兵馬は事実、苦しい言いわけをするほど苦しいらしい。
「お休みなすっておいであそばせ、北原さんが御看護においでなさるとおっしゃるのを、わたしが代って上りました」
「それはそれは、どうも少し疲れたものですからな」
「ここに、熱いお湯と妙振出《みょうふりだ》しがございますから、熱いのを一杯召上って、お休みなさいませ」
 渡りに舟である。病気そのものが渇望していたところのものを、棚から牡丹餅《ぼたもち》的に与えられたことの喜びが、兵馬の苦痛を和《やわ》らげずにはおきません。
「では、せっかくの御好意を遠慮なく」
 片手をのべて、熱い湯の湯呑を受取ると、グッと一口飲みました。この一口の湯が、兵馬の五臓六腑までしみ渡って、渇する者に水とか湯とかいう本文通り、一口の湯が全身心に反応しました。
 禅家で点心《てんじん》というが、一片の食を投じて、霊肉の腐乱《ふらん》を済《すく》うという意味通りの役を、この一口の湯が、兵馬のすべてに向って与えたようです。
「ああ――」
と、甘露《かんろ》にしては少し熱いが、ほんとうに熱い甘露であったと、兵馬は、つづいて二口三口と飲んで息をつきました。
 その間、今これを持って来た娘は、かいがいしく兵馬の後ろに廻って、兵馬が一旦、まくし上げておいた蒲団《ふとん》を、再び丁寧《ていねい》に敷き直した上に、
「これではお寒いでしょう」
と言って、唐紙《からかみ》をあけて次の間へ入ったと思うと、早くも、二枚ばかりの蒲団を持って来て、その一枚を以前の上へかけ増して、
「どうぞ、お休みあそばせ、無理をしてはお悪うございます、ただいま、お火を持って来て上げます、それから朝の御飯は、お粥《かゆ》をこしらえて差上げましょう」
 そこで兵馬も、その好意を有難く受けて、
「どうも飛んだお世話になります、ではお言葉に甘えて、粥を少し、こしらえていただきましょうか、それに梅干の二つもあれば結構でございます」
と答えると、
「よろしうございます、この通りの山の中の冬籠《ふゆごも》りでございますから、お口に合うような物のあるはずはございませんが、何か見つけて参りましょう。よほどお疲れの御様子でございますから、御無理をなされずに、ゆっくりお休みあそばせ」
 為めを思ってすすめるものですから、兵馬もその親切に、我《が》を張る勇もなく、
「それでは、御免を蒙《こうむ》るとして」
 彼は再び上着をぬいで、寝床に入ろうとするのをあとにして、娘は出て行きました。
 この娘が出て行ったあとで、兵馬は、親切な娘だという感じを催すことを、とめることができません。
 それにしても、この宿の女中ではない、この宿の娘か知らん、どうも気分がそうでもないようだ。しからば、人に連れられて、この山の奥に冬籠りをすべく逗留《とうりゅう》している客のうちの一人か――
 そうだろう、それに違いない。旅は相身互《あいみたが》いで、さいぜんの男の人が看病に来るというのを、女の
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