タヘテ詩ヲ賦ス、マコトニ一世ノ雄ナリ、而シテ今|安《いづ》クニカ在ル哉、況《いは》ンヤ吾ト子《なんぢ》ト江渚《こうしよ》ノホトリニ漁樵《ぎよしよう》シ、魚鰕《ぎよか》ヲ侶《つれ》トシ、麋鹿《びろく》ヲ友トシ、一葉ノ扁舟《へんしゆう》ニ駕シ、匏樽《ほうそん》ヲ挙ゲテ以テ相属《あひしよく》ス、蜉蝣《ふゆう》ヲ天地ニ寄ス、眇《びよう》タル滄海《そうかい》ノ一粟《いちぞく》、吾ガ生ノ須臾《しゆゆ》ナルヲ哀《かなし》ミ、長江ノ窮リ無キヲ羨ミ……」
[#ここで字下げ終わり]
 そこで、丸山勇仙が、一種の反抗的昂奮を催してきました。
 反抗的とはいうが、何が反抗だかわからない。ただ、むやみに一種の昂奮を催してきたらしい。
 しかし、仏頂寺弥助が耳錠を取った時分には、尺八の音は止《や》んでおりました。
「あ、助かった」
 ホッと息をついた時に、丸山勇仙が、
「君は、それほど尺八がいやなのかい」
「尺八と、木魚《もくぎょ》だ、あれを聞かされると、ほとんど生きた空は無い」
「不思議だね」
「いやといったって、嫌いじゃないんだね、虫が好かない、というでもないのだね、そうだ、怖いんだ、むしろ一種の恐怖を感ずるのだ」
「へえ、尺八と、木魚を聞いて、恐怖を感ずるという人をはじめて見た」
「しかし、恐怖というよりほかは言いようがないのだ、嫌悪《けんお》じゃなし、憎悪《ぞうお》じゃなし、やっぱり怖ろしいんだ、あの二つの音に、恐怖を感ずるとより言いようがない」
「君ほどの人がねえ……君の亡者ぶりには、大抵の人がおぞげをふるうのに、その君が、尺八と、木魚に恐怖を感ずる――さあ、弱味を見て取ったぞ、仏頂寺を殺すにゃ刃物はいらぬ、笛と、木魚で、ヒューヒューチャカボコ……」

         十五

 お雪が気を揉《も》もうとも、仏頂寺が恐怖を感じようとも頓着のない、この座敷のあるじは、感激の無い「鈴慕」の一曲を冷々として吹き終りました。
 さあ、こまちゃくれたピグミー、昔を恨み顔な女――出て来るなら今のうちだよ。
 だが、今晩は魑魅魍魎《ちみもうりょう》が出ないで、あたりまえの人が来ました。
「先生」
 軽く息をきって、障子を忍びやかに開いて来たのはお雪です。
「御免下さいまし」
 それは燈火《あかり》のついていない真暗な座敷です。
 心得ているのか、入って来たお雪は、あれほど気の利《き》いた子でありながら、暗い座敷へ入って、まず燈火をつけようとの試みもしないで、少しばかり畳ざわりの音がしたかと思うと、それっきり静かで、何も聞えません。
 暫くあって、息をしずめたお雪が、哀求するように言いました、
「ねえ、先生、当分、あの尺八はお吹きにならないようになさいましな」
「それは、どうして」
「でも、なんだか、気味の悪い人が来ていますもの」
「そうだ、このごろになって誰か来たようだが、なにかい、どんな人だい」
「どうも何だか、人を探しに来たような人たちですから御用心なさいませ、その御用心のために、笛はお吹きにならない方がよかろうと思います、そうして、わたしなんぞも、なるべく姿を見られないようにしていようと思いました」
「なるほど、いまごろになって、ここへ来るような奴は怪しいね」
「それでも、明日はお帰りなさるような模様でございます」
「では、その連中の帰るまで、笛を吹くことはやめにしようかな」
「そうなさいまし……それから先生、昨晩は夢をごらんになりましたね」
「夢なんぞは毎晩のように見るよ、昨晩に限ったことはありません。そら、明るい目で物が見えないだろう、だから、物を見ないで、夢を見るのが本職のようなものさ」
「そうおっしゃればそうかも知れませんねえ。いったい、どんな夢をごらんなさるの」
「どんな夢といって、夢のことだから、とりとまりはないのさ。けれども不思議だな、夢を見ているうちだけが、人間らしくなるよ」
「ようござんすねえ、沢山よい夢をごらんなさいまし」
「よい夢ばかりは見ておられない、見たくもない夢もずいぶん見るけれど、どうも夢のことだから、えりごのみをするわけにはゆかないのさ」
「そうですねえ、夢ばっかりは、見たいと思ってもいい夢が見られず、見まいとしても、悪い夢を見たがるものですから……でも、先生、やっぱり、心に無いことは、夢にも見ませんのねえ。わたしもこのごろは、変った夢を見るようになりました」
と前置をしてお雪が、自分の夢を次の如く語り出でました。
「わたしのこのごろ見る夢は、怖い夢ではございません、イヤな夢というのでもございません。それは怖い夢も、イヤな夢も、ずいぶん見ないことはありませんが、このごろは、山の夢を見ることが多いんでございますよ。高い山の夢ばかり見るような癖がついたのかも知れません……それというのは、ここでは皆さんが、山の話ばかりなさるから、それで、わたしの夢もついつい、山のことになってしまうんじゃないかと思います。けれども怖い夢や、イヤな夢を見るより、山の夢を見る方が、どのくらい楽しいか知れません。それは山へ登りたいと思いながら、登れないものですから、よけい、夢になりたがるんでしょうと思います――わたしの見た山の夢を、話して上げましょうか」

 山の話が讖《しん》をなしたものか、お雪の雄弁――熱を以て語る山のあこがれが、竜之助の頭脳のうちに絵のような印象を植えつけたものか、その夜、竜之助は、雪を頂く高峰のめぐるある地点に立つところの自分を発見しました。
 銀のような山上の雪のまばゆきに映りあって、その空の碧《みどり》のまたなんというめざましいことだろう。人の魂を吸いこむほどの碧の色、こうもまあ冴《さ》えた色があり得るものかと思いました。
 有らん限りの自分の視力を払って、竜之助は高峰の山々をながめました。
 その山々の名は先刻、いちいちお雪から指さして教えられたはずであったが、今は茫洋として覚えておりません。名の記憶は茫洋に帰してしまったが、自分の放つ視力のめざましさは、疑おうとしても、疑うわけにはゆきません。
 遠近も、高低も、カーブも、スロープも、心ゆくばかり明快にうつるのみではない、雪に照り映《は》えている自分の一枚の白衣《びゃくえ》が、鶴の羽のようにかがやくのを認めました。
 どうして、この時、一枚の白衣で寒くないのだろう。寒くないのみならず、何ともいえない軽快なすがすがしさ。自分の四肢五体までがすっかり、この鶴の羽のように、さえ返っているのではないかと疑いました。
 彼が眼の不自由を感ずるのは、その醒《さ》めている時だけであります。
 多くの人が日の光のめぐみに浴する時こそ、彼は肉眼も、心も、全くの暗黒で、世の人が光を隠されて暗黒の眠りにつく時に、彼に自由の天地があり、どうかすると、赫々《かくかく》たる光に眩惑《げんわく》されることもある。
 しかしながら、この夜の自由は、その以前の夜の自由とは、少しく性質を異にしてきたようです。何よりもまず夢の世界に立つ時、未《いま》だひとたびも、自分の視力を疑ったことのないのが幸いといえば幸いでしょう。
 とはいえ、雪をいただく大山脈を長城にして、めざましい空の碧《みどり》の色を、こうもあざやかに見たのは、今がそのはじめです。
「ここが有名な白馬《はくば》ヶ岳《たけ》のお花畑でございます、まあ、この美しいとも何とも言いようのない花の色をごらんなさい」
 後ろから呼ぶ声で、顧みると、それはお雪です。花の色を見る前に、竜之助はお雪の姿を見ないわけにはゆきません。
 この娘の姿といっても、面《かお》といっても、かねて潜在の実印象が少しもあるのではありませんが、竜之助は、直ちにその娘が、お雪だとわかりました。
 それは、声だけでも無論わかるはずですが、この時は、面《おも》だち、その姿、それがお雪でなければならないと思いました。
 黒い髪の毛を洗い髪にして、白い面《おもて》に愛嬌《あいきょう》をたたえている、その無邪気にして、魅力のある面《かお》が、お雪ちゃんでなければならないと思いました。
 ことにその着物をごらんなさい。自分の白衣《びゃくえ》も、鶴の羽のような白いかがやきに見えますが、お雪ちゃんのその衣裳は、百練の絹と言おうか、天人の羽衣《はごろも》といおうか、何とも言いようのない白無垢《しろむく》の振袖で、白無垢と見ていると、裾模様のように紫の輪廓の雪輪《ゆきわ》が、いくつもいくつもその中から、むら雲のように湧いて出るのを見受けます。
「まあ、この花の色をごらんなさい、ありとあらゆる花が、ここに咲いているではございませんか。色という色がみんなここにこぼれているようでございます。これは百合に似た花でございますが、紫の濃いところが違います。こちらをごらんなさい、花も、葉も、枝も、すっかり白天鵞絨《しろびろうど》ではございませんか。これはまあ、真黄色《まっきいろ》! こんな大きな梅鉢草《うめばちそう》! これは石楠花《しゃくなげ》と躑躅《つつじ》の精かも知れません。白蓮華《びゃくれんげ》……とでも申しましょうか、この白さの深いこと、可愛いじゃありませんか。この十坪ばかりのところは、すっかり桜草の一族で固めて、他人を入れまいとしておりますよ。どれを見ても、これを見ても、色のよいこと――それもそのはずです、この高いところで半年の間、この真白な雪で研《みが》かれたんですもの、下界の花とは色の深さが違います、強さが違います、位も違うのは仕方がありません」
 空間のめざましさに、眼をさました竜之助は、地上の美観にも目を奪われないわけにはゆきません。なるほど、これがお花畑。人間の手で作れない、雪と、氷と、高さとの力で作られた、天然の花の色。
「これが深山薄雪《みやまうすゆき》っていうんでしょう」
 お雪はその一つを摘《つ》み取って、自分の唇につけながら、
「この信濃の国のうちでも、お花畑のいちばん美しい山は白馬ヶ岳だそうでございます、それはいちばん北の方にあるから雪が多く、雪が多いから地面にうるおいが出て、うるおいがあるから、こうした植物が好んで棲《す》むのだと、山の案内の方が教えてくれました。全くその通りと思いますわ。あなたは久しく物の色というものをごらんになりませんね、ですから、しっかりとこの深い色、汚れのない色をごらんあそばせ、そうして、花の名もよく覚えていて下さいな、深山薄雪といって、わたしの名と同じことなんです」
 その花を、竜之助の眼の先につきつけました。
 真正に、清浄な紫の色、この色が下界の花には無いと、竜之助も思いました。
「あれ、蝶が……」
とお雪は山吹のような金色の花模様の中に、ヒラヒラと舞う白い蝶を捉《とら》えようとして、浅瀬に裳《も》をとられたように引返し、
「深山白蝶《みやまはくちょう》というのが、あれかも知れません」
 信濃ギンバイの黄金の中に、深山白蝶の色。
 蝶を追うて、二人は静かに上りにかかると、花をいくつも摘んで胸にかかえたお雪が、行手の山を指さして、
「白馬の頂《いただき》が見えました」
「なるほど」
 その山嶺を仰ぎ見ますと、真白な雪が、身ぶるいしているのを認めました。
「裏の国では、あれを大蓮華山《だいれんげさん》と申します、こちらではシロウマと申します、それを、今では誰が言いならわしたか、ハクバヶ岳《たけ》が通り名になってしまいました」
 お花畑を出でると、雪の渓間《たにま》がある、林泉がある、見慣れない獣《けもの》が、きょとんとして、こちらを向いている。
「あれが羚羊《かもしか》です、あの獣は赤いものが好きで、赤いものさえ見せれば半日でも見ています」
 お雪は帯の間から、これも目のさめるほどな紅絹《もみ》の布片《ぬのきれ》を取り出して、その獣に向って振ると、眼をクルクルして、いつまでもそれを見ている。
「ああして、これを恐れないのは、人を信じているからでしょう、あぶないものですね」
 少し進んで行くと、偃松《はいまつ》の間から、のそのそと一羽の鳥が出て来る。
「ごらんなさい、雷鳥が出て来ましたよ、あの鳥もまた人を怖れません」
 やがて頂上に近くな
前へ 次へ
全16ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング