て考え込んだが、その際、もういっそう気になるのは、この楼の中で、ただ一人のあの娘の身の上だ。
まだ、よく打解けては話さないが親切な娘、どこやらに人を引きつける女性味のある娘。
仏頂寺のやからがあれをめがけて、からかい[#「からかい」に傍点]はじめでもしようものなら、思いやられるばかりだ。
どちらにしても、あの娘にだけは、仏頂寺、丸山の身辺へ、あまり近寄らないように注意をしておいた方がよい、よしよし、二階の東の角の座敷にいると聞いたから、出立の前にはひとつ、訪ねて、それとなしの警告を試みておこう。
そうしてみると、やっぱり、迷惑でも、自分があの二人を引きつれてこの温泉を出て行ってしまった方が、宿の者全体に禍《わざわ》いの種を残さぬようになるから、いっそ、そうしてしまおうか。まことに迷惑だ、あの二人の亡者を引張って歩くことは、迷惑千万な儀ではあるが、その迷惑を人に残さず、自分が背負って歩く方が、迷惑が徹底している。
仕方がない――一緒に出かけよう、兵馬はこんなふうにも決心を改め、いずれ万事は明日という心構えです。
その覚悟で兵馬は、白骨の温泉も今日限り、明日は、また行方定めぬ旅に出るのだ、名残りに、心ゆくばかり、お湯にでもつかっておこうと、その日の夕方、湯ぶねの全く空いている頃を見計らい、ただ一人を湯の中に没入して、かなり長い時間、湯の音も一つ立てないでいると、多分、それと知らずに、戸をあけて湯ぶねへ近づくような人の気配がありましたから、そのつもりでいると、気配はあったが、人が見えません。
その瞬間に兵馬は、隔ての羽目の隙間《すきま》から、自分をのぞいている者があるなと感づきました。自分のいることに遠慮したのか、しないのか、とにかく、ここへ来かけて、ふっと立ちどまって、隙見をしている人のあることは事実です。
兵馬の方ではすき見をしている者の、誰だかわからないが、こちらから見ればそれはお雪です。
お雪は、いつもの通り、誰もがたいてい入らない時分を見計らって、今日も、湯ぶねへ来たのですが、来てみると、やはり推想通りに何の物音もしませんから、遠慮なく帯を解いて、あわや、湯ぶねへ走り込もうとして、はじめて人の気配に打たれました。
誰もいないと信じきっている湯ぶねに人がいた――でもよかった、このまま走り込まないで。そこで一枚になった浴衣《ゆかた》をたくし上げて、見るともなしの隙見で、羽目の隙間から中を見ると、兵馬の姿を明らかに認めることができました。
この時は、兵馬を兵馬として明らかに認めたのだから、驚きました。
到着の最初から、今まで、言葉も交わしたし、形も見ていたし、看病の親切までしてやっているはずなのに、おたがいにまだそれと気がつかずにいたのを、ここではじめて、お雪の方から兵馬というものを、兵馬としての全体を、不意に受取ったのだから、驚くのも無理はありません。
ある日の夕方、疲れ果てて、自分の月見寺の井戸のそばへ来て、一杯の水を求めた可憐《かれん》な旅の人が、その人でした。
そうして、同情のあまりにその夜さ[#「夜さ」に傍点]を寺に泊めたために、計らず自分たちが危難を救われる縁となったのは、その人ではないか。
何かを求めて、旅にさすらいの人とは言いながら、ここであの人に――お雪は飛び立つほどに、その奇遇をなつかしく思いましたけれど、兵馬の方ではいっこう気がつかないで、まだ隙見の人は隙見をやめないなと、軽く気に留めているばかりです。
目のあやまちではないかと、お雪ははやる心を鎮《しず》めて、とっくりと兵馬を見定めようとしましたが、よく落ちついて、見れば見るほどその人ですから、今は間違いないと思いきって言葉をかけて名乗りをしようとしましたが、何かおさえる力があって、それを躊躇《ちゅうちょ》させたのが不思議です。
いけない、いけない、先方が気がつかないのだから、こっちから名乗りかける必要も、義務もないではないか、という声が、お雪の耳もとでささやいて、何かしら、手をかけて後ろへ引戻そうとする本能があります。
お雪はそこで引戻されました。ゆかたの上へ丹前を羽織って、せっかく、飛び込もうとした湯槽《ゆぶね》に心を残して、音のしないように、気取られないように、この場を立ち出でてしまいました。
全く、その気配が消えた時に、兵馬が変な人があればあるものだ、共同の風呂だから、誰に遠慮もあるまいに、自分がここにいることを認めた上で、こっそりと立去ってしまった者がある、自分がそれほど怖ろしげに見える相手か知ら、自分の方でこそ気の置ける人もあろうに、先客が新来の人に遠慮をする由《よし》もなかろうに。
さりとは、妙にハニかんだ人だと、兵馬が笑止《しょうし》に思いました。
しかし、笑止に思ったのも束《つか》の間《ま》、ああそうだ、それに違いない、いま、来たのは、あれはあの娘さんだ、この宿の冬籠りのうちで、たった一人の女性、たった一人ではあるが、女性の最もよいところを多分に備えているらしいあの若い娘さんだ。
誰もいないと安心して来て見ると、意外にも自分というものが隠れていたから、それで急に恥かしくなって引返したのだろう、そうだとすれば気の毒なことだ、だが、こういった山奥の温泉宿で、それはあんまり遠慮が深過ぎはしないか。
なにも、ここへ入って来たとて、恥かしがるがものもありはすまいに、しおらしい遠慮だと、兵馬はまたかえって、それを微笑みました。
兵馬の推察は、半分は当っているが、あとの半分――どんな心持でその娘が急に立去ったかは、全くわかろうはずがありません。
お雪のこの心づかいは、賢明なものでありました。
それは、自分たちとしては、誰に逢っても、誰と話をしても、さらに後ろめたいことは無いけれども、自分たちの連れには、人に知られていいか、悪いかわからない人がいる。当人も人には逢いたがらないし、自分たちも人に会わせたくないと思う人がいる。
湯治に来たとはいうものの、実はその人を隠さんがために、はるばるこの白骨の山間《やまあい》まで来たというような結果になっている。
その人は、ことさらに逃げ隠れるという卑怯な振舞はないが、陽《ひ》の目、人の目を、避けることを好んでいるらしく、また、おのずから、それを避けるように出来ている。
お雪は、その人が、こうなるまでの来歴を知らない。知りたいとも思うが、そこを掘ると底知れない暗やみの穴が現われて、自分がその中にまき込まれるように思うから、怖《こわ》くてその蓋《ふた》があけられないような心持でいる。
しかし、その人の魂には、あらゆる創《きず》がついて、そこから血が滲《にじ》み出ているのを、まざまざと見せられる。
容易ならぬ罪業《ざいごう》の人である。
男というものは、閾《しきい》を跨《また》げば七人の敵があるものだという話だが、この人の敵は、七人や八人ではあるまい。
それはどこに、どういう敵を持っているのだかわからないけれども、どのみち、誰にも知られないうちに、あの満身の病根に療養を加えさせて上げたいという、暗示的に来る同情心が、この際、お雪の逸《はや》る心を抑えて、そうして、飛び立つほどに名乗りかけてもみたかった兵馬に対して、一言も言いませんでした。
一言も言わないのみならず、先方でまだ気がつかないでいるのを幸い、自分も、あの人の帰るまで、姿を見せないでいるのが分別《ふんべつ》だと心を決めてしまったのは、全く聡明な思いやりでありました。
無論、お雪は、二人の間の執拗《しつよう》なる葛藤《かっとう》を、少しも知っているのではない。
ただ、こちらは隠れている人、隠れないまでも、人に会わせたくも、逢いたくもない人であるのに、先方は、今時分、こうして、この山奥まで、雪を冒《おか》して、入り込んで来る以上は、それは徒《いたず》らに紛《まぎ》れ込んだと思われない、道に迷うたともいわれない、何か目的があり、何か尋ね求めんとするものがあればこそ、この時分、このところへ、わざわざ足を踏み入れたものに相違ない。
もしや、心安立《こころやすだ》てに面《かお》を合わせることが緒《いとぐち》となって、退引《のっぴき》ならぬこんがらかりに導いた日には、取っても返らないではないか。
あの若い方は、素直な方であるし、自分にとっては、危うきを救われた恩人である。この場合、知って知らないふりをするのはつらいけれど、思い合わせてみると、その時分から、何かを尋ね尋ねて歩み疲れていた人のようではあった。
それに気味の悪いあの二人連れの壮士。どちらにしても、会わせないがよい、会わないがよい、というお雪の心づかいは、聡明でした。
しかるに、この聡明なお雪の心づくしを知るや知らずや、その宵に至ると、例の座敷で、竹調べがはじまり、ついで「鈴慕《れいぼ》」の響きが起りました。
お雪は、それを聞くと、今晩はあらずもがなだと思いました。
せめて、あの笛の音が、今いう新来の客人たち、つまり、さいぜんの若い旅のさむらいの人と、それから、どう考えても気味の悪い二人連れの壮士とにだけは、あの笛の音を気取《けど》らせたくないという心が無性《むしょう》にお雪の胸にのぼります。あの笛の音、そこから自分の心づくしがふいになるようではたまらぬ。
お雪は、その尺八の音に気を揉《も》みましたけれど、尺八の音は、お雪の苦心に頓着なく、冷々亮々《れいれいりょうりょう》として響き渡ります。
影は隠せば隠せるが、音というものは、隠して隠すわけにはゆかないらしい。
その尺八の音を聞いた時に、あちらの室にいた仏頂寺弥助が、耳を蔽《おお》うて畳の上に突ッ伏しました。
「忌《いや》だ、忌だ、おれは、あの尺八の音というやつが忌だ」
それを、丸山勇仙が笑止がって、
「性に合わないのだろう、君は、風流というものに縁無き衆生《しゅじょう》だ」
「どうもいかん、あれを聞いていると、心が滅入《めい》るのみならず、骨と、身が、バラバラに解けて、畳の中へしみ込んでしまいそうだ」
起き上ったが、両の耳に、しっかと掌を当てて、
「どこか、あいつの聞えない座敷はないものかなあ」
「もう少し待てよ、そのうちに終る」
丸山勇仙は、必ずしも、それほどに悪い気持で尺八を聞いているのではない。だから、他人の痛いのは百年も我慢するつもりで、落ちつき払い、
[#ここから1字下げ]
「客ニ洞簫《とうしよう》ヲ吹ク者アリ、歌ニヨツテ之《これ》ヲ和ス、其ノ声、嗚々然《おおぜん》トシテ、怨《うら》ムガ如ク、慕フガ如ク、泣クガ如ク、訴フルガ如シ、余音《よいん》嫋々《じようじよう》トシテ、絶エザルコト縷《いと》ノ如シ、幽壑《ゆうがく》ノ潜蛟《せんこう》ヲ舞ハシ、孤舟《こしゆう》の※[#「釐」の「里」に代えて「女」、第4水準2−5−76]婦《りふ》ヲ泣カシム……」
[#ここで字下げ終わり]
と、余音《よいん》をことさらに長くひっぱって空嘯《そらうそぶ》いていましたが、そのうちになんとなく、自分も悲しくなりました。
仏頂寺弥助は、しっかりと耳錠《みみじょう》かいながら、
「まだ、やってるかい」
「うむ」
丸山勇仙がうなずいてみせると、面《かお》をしかめて、いっそう耳錠を固くする。
[#ここから1字下げ]
「蘇子、愀然《しゆうぜん》トシテ襟ヲ正シ、危坐シテ客ニ問テ曰《いは》ク、何スレゾ其レ然《しか》ルヤ、客ノ曰ク、月明ラカニ星稀ニ、烏鵲《うじやく》南ニ飛ブハ此レ曹孟徳ガ詩ニアラズヤ、西ノカタ夏口ヲ望ミ、東ノカタ武昌ヲ望メバ、山川《さんせん》相繆《あひまと》ヒ、鬱乎《うつこ》トシテ蒼々《そうそう》タリ、此レ孟徳ガ周郎ニ困《くるし》メラレシトコロニアラズヤ……」
[#ここで字下げ終わり]
「まだかい」
仏頂寺弥助が渋面をつくると、丸山勇仙は、前と同じように首を横に振り、
[#ここから1字下げ]
「其ノ荊州《けいしゆう》ヲ破リ、江陵ヲ下リ、流レニ順《したが》ツテ東スルヤ、舳艫《じくろ》千里、旌旗《せいき》空ヲ蔽《おほ》フ、酒ヲソソイデ江ニ臨《のぞ》ミ、槊《ほこ》ヲ横
前へ
次へ
全16ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング