ったのでしょう、残雪のまばらな、焼野原のようなところに出て来ました。
 東道気取りに先に立ったお雪が、あたりを見廻して、
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君と行く白馬ヶ岳の焼野原
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と歌い出しました。興に乗じて歌を詠《よ》むつもりでしたろう。それが、どう間違ってか、白馬ヶ岳の焼野原と言ってしまったので、グッとあとが詰まったようです。
「白馬ヶ岳をうたうのに、焼野原では付きませんね」
 お雪は、焼野原に替うるにお花畑を以てしようか、雲の海を以てしようか、偃松《はいまつ》を以てしようか、雪渓を以てしようか、その苦吟をはじめたらしい。
 その時に、雲が濛々《もうもう》と湧いて来たものですから、ほとんど十歩ばかり先に進んでいたお雪の姿が見えません。
 お花畑も、焼野原も、一様に、この濛々たる白雲につつまれてしまいました。
 ほどなく雲霧の晴れた時、自分の立っているところ――多分それが、白馬ヶ岳の頂上なのでしょうと思います。
 今は、照りかがやいていた天上も、落日の時と覚しく、山と、空との間を彩《いろど》るところのものは、金色《こんじき》であります。
 その金色が、山際からようやく天空に向ってぼかされて行く間に、大洋に浮ぶ島々のように、ちぎれちぎれの雲が流れていたり、その雲の間を悠々《ゆうゆう》として、多くの鳥が泳いだりしています。
 お花畑のあたりでは、仰いで見た雲の山岳が、ここでは相呼びかわすの地位となりました。古人として見たものを、今人として見るのです。偉人として仰いだものを、友人として認めるの地位になりました。
 お花畑の花の色の透明にして深甚《しんじん》なのに酔わされた竜之助は、ここに来て、永遠と、無窮とを彩る、天地の色彩の美に打たれないわけにはゆきません。
 ふと顧みると、いつのまにか、自分のかたわらに立っていたお雪の姿が変りました。
 ははあ、また誰か意外の人が来ているなと、怪しんだのは瞬間で、
「あなたは、どの山を見ていらっしゃいますか」
 その声は、お雪に違いありませんが、その姿は、純白な笠に、純白の笈摺《おいずる》に、そうして銀のような柄杓《ひしゃく》を携えた巡礼姿であります。
「すばらしい眺めだよ」
と竜之助が、眼を拭いました。
「あなたのお目を、今まで塞いで置いたのは、こういう景色を見せて上げようがためではございませんでしたか知ら」
「そうかも知れない」
「ただ、眺めておいでになっただけでは、さだめて物足りないことと存じます、御案内を致して上げましょうか」
 お雪はその銀の柄杓を取り直して、竜之助の当面、南の方にそそり立つ山の一つをさして、
「あれが槍でございます」
「ははあ」
「その次が穂高!」
「ははあ」
「穂高の向うの大きなのが乗鞍ヶ岳でございます、わたしたちのおりまする白骨温泉の真上に、あの山がかぶさっておりまする。それから、あの槍と、穂高との間に、煙の上っているのがお見えになりますかしら」
「見える、見える」
「あれが焼ヶ岳の煙でございます、ほかほかの山々は、みんな眠っておりますけれど、あの焼ヶ岳一つが煙を吐いておりまする」
「なるほど」
「駒ヶ岳が、お見えになりましょう」
「どれ?」
「富士山と、赤石と、八ヶ岳とが、遠くかすんでおりまするそのこちらに」
「うむ、なるほど」
「あのお山に昔、天津速駒《あまつはやごま》という勇敢なる白馬が棲《す》んでおりました、それは武甕槌《たけみかずち》という神様の魂から生れた馬だそうでございます、双《そう》の肩に銀の翼が生えていて空中をかけめぐり、夜になると、あの駒ヶ岳の頂上で寝《やす》むのだそうでございます」
「なるほど」
「それから、あの乗鞍ヶ岳には、天安鞍《あめのやすくら》というのがあったそうでございます、その鞍を馬につけて乗れば、どんな馬からでも、落ちることがないと申します」
「うむ」
「槍ヶ岳には、天日矛《あめのひほこ》というのがございました、その矛先は常に盛んなる炎に燃えていたそうでございます」
「ははあ」
「それから越中の立山《たてやま》――ごらんなさい、あの雄大な、あの険峻《けんしゅん》な一脈が、あれが立山連峰でございます。立山の上には、天広楯《あめのひろたて》というのがございました、敵にその楯を向けると、敵の大小によって、楯が伸び縮みをするという楯でございます……」
「お雪ちゃん、お前は何でもよく知っていますね」
「わたしが、そんなに物識《ものし》りなのではございません、みんな白骨温泉の炉辺閑話の受売りでございますから、買いかぶらないように、お聞き下さいましよ」
 ここで、今までは、神仙化されていた娘の生《しょう》の姿が、ちょっとひらめいたので、あぶなく現実に帰ろうとした竜之助の眼が、立山連峰の一つの、最も鋭く、最も険峻なるものに、ひたと吸い寄せられてしまいました。
 一旦、少しばかりハニかんで、人間味を見せたお雪が、ここで以前の、超現実の説明者の地位に戻りました。
「昔、昔、那須の国造《くにつこ》が、八溝山《やつみぞさん》の八狭《やざま》の大蛇《おろち》を退治しなければならないために、それには、どうしても駒ヶ岳の天津速駒《あまつはやごま》に乗り、乗鞍ヶ岳から天安鞍《あめのやすくら》を、槍ヶ岳から天日矛《あめのひほこ》を、立山から天広楯《あめのひろたて》を借受けなければならないと、はるばるこの信濃の国まで、たずねて参りました……」
 お雪は、ここまで語りつづけた時に、自分が語り聞かせようとしている当の人が、自分の説明を、少しも聞いていないことをさとりました。
 自分の説明を聞いていないのは、自分の言うところに注意するよりは以上に、注意すべき何物にか心を奪われているのでしょう。
 そこで、無益の説明を中止して、その人の凝立《ぎょうりつ》して、眼を吸い寄せられているところを、お雪が安からぬ色で認めて、
「そんなに、あの山がお気に入りましたか」
 でも、返事がありません。
「あれは越中の立山の剣山《つるぎざん》でございますよ、まだ、あのお山の頂《いただき》へは、誰一人も登った者は無いそうでございます」
「そうかなあ」
「槍ヶ岳は、あの通り、槍の穂先のように鋭くそそり立っておりますが、それでも、登れば登れるそうでございます、立山の剣山ばかりは、誰も登ったものは無し、登ろうとする者さえ無いと聞きました。よし、登ろうとする者があっても、どちらから見ても、あの通りの断崖絶壁で、手脚の着けどころが無いのでございます。そうして、じっと見ているうちに身の毛が立って、怖《こわ》くなって、さすが向う見ずの山登りも、断念して帰るのだそうでございます……昔の弘法大師さえも、千足の草鞋《わらじ》を用意なすって、それを穿《は》ききってもまだ登れなかったのが、あの山だそうでございます」
「なるほど、そうかも知れない……でも、今、誰か登っているようだぜ」
「御冗談《ごじょうだん》でしょう、よしんば登る人がありましても、ここからそれが見えるものですか」
「ところが、この眼で見える――おれの眼はどうかしているのか知らん、ああ、今日は何もかも見え過ぎるほど、見える」
「あなたにお見えになるほどのものが、わたしに見えないはずはございますまい」
 お雪は、竜之助が棒の如く立って、凝視《ぎょうし》している、その越中の剣《つるぎ》ヶ岳《たけ》の半面に向って、同じように、凝視の眼を立てました。
「見えるだろう、そら、あの頂上に」
「何も見えません」
「おかしいな、よく見てごらん、頂上に錫杖《しゃくじょう》が立っている」
「え、錫杖が、あのお山の頂上に?」
「そうさ、ただ一本の錫杖が、絶頂の岩石の間に、突き立ててあるのが、お前には見えないのかなあ」
「少しも見えません、また見えるはずもございませんもの」
「だから、わしの眼が今日はどうかしているのだろう、こっちの眼では、ありありとわかるものが、お前の眼に少しも見えないとは……だが確かに錫杖が一本、あの剣ヶ岳の上に立っている。錫杖が存する上は、それを立てた人間がなければなるまい。人間がそれを立てたとすれば、古来、人跡至らずといわれた伝説は嘘だ……」
 しかしながら、これは物争いになりませんでした。一方が見えるというものを、一方が全く見えないというのですから、議論になりません。
「ああ、お月様が出ました、新月が……何という、いじらしい光でしょう。ですけれども、また触れば切れそうなあの鋭さと、冷たさ。わたしは、お月様のうちで、あの二日月がいちばん好きでございます」
 お雪の眼は、山から月にうつりました。
 なるほど、立山の連峰から、加賀の白山へつづくと覚しいところに、新月の影があります。
 金色《こんじき》の、聖者の最期《さいご》を彩る荘厳《そうごん》に沈んだ山と、空との境目が、その金色の荘厳を失って、橙《だいだい》の黄なるに変りました。
 その間に繊々《せんせん》としてかかる新月の美しさ。そうして、微かなるその新月の光に向いた山の峰が、涙の露を糸に引いたようなカーヴをかけているいじらしさ。
 だが、その美しさも、いじらしさも、束《つか》の間《ま》で、橙の黄なる空の色が、白蝋《はくろう》の白きに変る時分に、山々は一様に黒くなりました。
 一様に黒くはなったけれども、少しもその個性を失うのではない。槍は槍のように、穂高は穂高のように、乗鞍は乗鞍のように、駒ヶ岳は駒ヶ岳のように、焼ヶ岳は焼ヶ岳のように、赤石の連脈は赤石の連脈のように、八ヶ岳の一族は八ヶ岳の一族のように、富士は問題の外であるが、越中の立山は立山のように、加賀の白山は加賀の白山のように――展望において、やや縦覧を惜しまれている東南部、針木、夜立、鹿島槍、大黒の山々、峠でさえも、東北の方、戸隠、妙高、黒姫等の諸山までも、おのおのその個性を備えて、呼べば答えんばかりにではない、呼ばないのに、千山|轡《くつわ》を並べ、万峰肩を連ねて、盛んなる堂々めぐりをはじめました。
 天際と、地軸の間を表に真黒な沈黙、裏に烈々たる火炎を抱いて動き出したそのめざましさに、二人は驚動しました。
「ああ、山という山が、みんな集まって来るではないか」
「山がみんな集まって、何をするのでしょう」
「何をしでかすかわからない」
「あれ、富士山が――大群山《おおむれやま》が、丹沢山が、蛭《ひる》ヶ峰《みね》が、塔ヶ岳が、相模の大山《おおやま》――あれで山は無くなりますのに――まあ、イヤじゃありませんか、大菩薩峠までが出て来ましたよ」
「大菩薩峠が……」
「そらごらんなさい、相模の大山から、ちょっと、こっちの方、武蔵の三《み》ツ峰山《みねさん》までの間に、ちょっと凹《くぼ》んだところが見えましょう、あれが大菩薩峠の道でなくて何でしょう」
「そんなところまで、よくお前にはわかるねえ」
「わからなくてどうしましょう、わたしは、あの道を通ったことがございますもの」
「あの道をかい、大菩薩峠の路をかい」
「ええ」
「それはいつのことだ」
「そうですねえ、まだ、あの時から五年にはなりませんよ」
「どうも不思議だ」
 竜之助の頭が暗くなった時、天地もようやく暗くなりました。
 その暗い中に、巡礼の笠が、はっきりと浮ぶ。その子はほがらかな声で、
「暗くなりましたねえ、帰らなければなりません。どちらの道を帰りましょうか。峰伝いに杓子ヶ岳へ参りましょうか、そうして、日本のうちで、いちばん高いところにあるという岳の湯の天然風呂へ参りましょうか。そうでなければ、小蓮華《しょうれんげ》、大日《だいにち》ヶ岳《たけ》を通って、大池へ下りましょうか、大池から蓮華温泉へ出て一晩泊りましょうか。或いはまた、真直ぐに大町まで出たものでしょうか。それとも、あなたのお好きなあの剣山まで、立山連峰の道を一息に走ってみましょうか――」
 そう言われても、帰る心になれませんでした。
 天地が全く暗く、展望が全く奪われてしまっても、なお、ここに立つこと久しければ、再び夜の明ける時が無いではない――そうそう、今日は見なかった日の出が明日は見られるはず
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