でが、みな一つ体系に摂取されてあるということと、支那の武術との関聯を、兵馬は耳新しく聞いていると、村田が、
「今日やって来たあの鐙小屋《あぶみごや》の神主というのが、あれが、若い時分には世間を渡った男と見えて、よくいろいろのことを知っていますよ、諸国の兵法、武術の伝統などについて、時々要領を得た話し方をするのみならず、往々玄妙に触れるようなことを言いますよ。当人が、諸流にわたって究めているわけでもなかろうが、あんなような人間は、どうかすると、非常に間違ったことをいうと共に、非常に当ることを言い出すものです。一度、御逗留中にあの鐙小屋へ行って、おやじをたたいてごろうじろ」
 そこで兵馬が、
「ああ、あの神主殿ならば、さきほど、風呂場の中で面会し、隔てのない話しぶりに接しました」
「そうでしたか、ちょっと変ったところがありましょう。あれで、この寒天に、乗鞍ヶ岳へ上って、朝の御来光を拝んで帰るのですから。行者ではありません、やはり神主ですよ」
「いかにも、陽気そのもののような顔色をしておりました、そばへ寄ると、何か暖かいように感じました」
「一切、光明主義でしてね、陰気が大嫌い、陽気が、一切を救うというような教義をよく聞かされますが、一面の真理はあって、またその真理を幾分かは体現もしているようです。とにかく、変ったおやじです……そうそう、久助さん」
 村田は急に思い出したように、話半ばで久助を呼んで、
「久助さん、大事のおことづけを忘れましたよ、あの鐙小屋の神主様がね、お雪ちゃんにおことづけなんだ、どうも、あの子の半面には陽気がうせて、そのいわゆる『けがれ』というものが出て来たから、気をつけなくちゃいけない、前にもあることだから、心配だよ――神主さんが、お雪ちゃんの見えないのを、あぶないことのように言っていたから、お雪ちゃんに、よくそう言って下さい」
「はい承知しました」
「全く、お雪ちゃん、このごろ、めっきり暗くなったようだね、ちっとも人中《ひとなか》へ面《かお》を見せないじゃないか」
「いいえ、あれでなかなかお忙《せわ》しいのですから、手が放されねえんでしょう」
「とにかく、飛騨《ひだ》の高山のイヤなおばさんとやらのこともあるだろう、浅吉君という色男のこともあるだろう、それらの運命を、大抵あの神主さんが予言しているじゃないか。今度の予言が、お雪ちゃんの上にでも当てはまろうものなら大変だぜ。神主さんの言い草じゃないが、陽気に、ぽんぽんと話しに来るようにならなけりゃ、第一、われわれの気まで腐るさ」
「そう言ってみましょう」
 久助が、叱られでもしたように恐れ入る風情《ふぜい》を、兵馬が見て、
「あのお嬢さんは、あなたのお連れなのですか」
「ええ、左様でございます、私の近所の人でございます」
 兵馬がこれを認めてしまっていると合点《がてん》したものですから、ぜひなく久助が答えると、兵馬はつづいて、
「あなた方のほうの組は、お二人ですか」
「ええ、いいえ、まだほかに連れがございますんですが、病気でございますから」
「ははあ、では、あなた方は、ほんとうの湯治に来ていらっしゃるのですかね。あの方は、あなたのお娘さんではないのですか」
「私の娘ではございません、いわば主人といった筋でございます」
「そうですか、お部屋はどちらですか」
「あの三階の東に向いた、角でございます」
 そこへ珍しくも、一方の廊下の入口から、お雪が姿を見せて、
「久助さん、お火種を少し下さいな」
「あ、お雪さんですか」
 一同の者が、お雪の声を、不意に珍客でもおとずれたもののように聞いて、言い合わせたように、こちらを見ましたけれど、お雪の姿は柱に隠れて、縦にその半身だけしか見えません。
 しかも、その半身といえども、薄暗がりのところに白く漂うているものですから、はっきりとは認めることができないのです。
「どうしたのですか、今日は、どのお部屋も、どのお部屋も、みんなお火が消えてしまいます。わたくしどもの座敷も、それから、昨日おいでになった二人のおさむらいさんも、火が冷たい、火が冷たい、とおっしゃりながら、お酒を召上っていらっしゃるし、それから、若いおさむらいのお方のお部屋も、とんと立消えがしているようでございますから、ついでおきましょう」
といって、お雪は、ひのし型の十能《じゅうのう》を差出しました。
「そうですか、では、あとから私が持って行って上げましょう。お雪さん、まあ、こちらへ入って皆さんとお話しなさいまし」
 久助は招いたけれども、お雪が心安く入って参りませんものですから、自分が立って来て、お雪の手から十能を受取って、炉辺へ戻り、火の塊を物色したが、どうも思わしく盛んな塊が無いと見えて、新たに木炭を炉の中へ加え、
「これが、かんかんとおこってからに致しましょう、焚落しでは、どうも火持ちが悪うござんすからな」
 その時に、会話を中止して、こちらを見ていた村田が、
「お雪さん、あなた、このごろどうかなさいましたか、ちっとも姿を見せないじゃありませんか」
「いいえ、どうも致しません」
「今、皆さんで、あなた方の噂《うわさ》をしていたところです、ちと、お話しなさいましな」
「有難うございます」
「あまり遠慮をなさってはいけません」
「遠慮なんて、しやしませんけれど」
「では、少しお話しなさい」
 それでも、お雪は入ろうとしないで、例の薄暗いところに立ち姿の半身で、あるが如く、なきが如くに、しおらしいものであります。
 ここでは、すすめられても遠慮をしているくせに、一方では、頼まれないのに、部屋部屋の火の心配までして、ほとんど女中代りの世話まで好んでして歩くものらしい。
 宇津木兵馬も、その時、そう思いました。自分の部屋も、自分が立つまでには、そんなでもなかったが、そのあとで、この娘さんがしらべてみた時分には、炬燵《こたつ》の火が消えてしまっていたのかしら。そこまで気を利《き》かせてくれているこの娘さんの、相変らず行届いた親切ぶりが、宿の人でないだけに、感謝の至りと思わずにはおられません。
 しかし、この際、こうして入りもせず、去りもしないお雪の遠慮が、一座の気合を殺《そ》ぐことはかなり夥《おびただ》しいものですが、村田がそのバツを合わせるように、兵馬に向って話をつづけて言いました、
「あなたのお連れだといって、あとからおいでになった方も、やはり、武術修行の仁《じん》とお見受け申します」
「いかにもお察しの通り、一人は仏頂寺弥助でございます」
「なるほど」
 村田がうなずきました。うなずいたところを見ると、村田も以前から、仏頂寺の名を聞き知っていたのかしら。或いは時の調子で、お座なりにバツを合わせたのかしら。そこで兵馬も漫然と、
「あとで御紹介いたしましょう」
と附け加えました。
「仏頂寺弥助という御仁《ごじん》は知りませんが、仏生寺弥助殿なら承っております」
と村田がいう。
「同名異人であるかも知れません」
「しかし、その仏生寺弥助殿ならば、先年、京都で殺されているはずです」
「そうでしたか」
「斎藤篤信斎の甥《おい》に当りますかね」
「ははあ」
「そもそも斎藤弥九郎先生が、越中国氷見郡仏生寺村というのに生れたのですから、その村名を取っていただく弥助殿、ことに弥九郎の弥、弥助の弥、通《かよ》っているようですから、甥でないまでも、親戚かなにかであるには相違なかろうと思います」
 村田寛一がこう言ったものですから、兵馬も考え出して、
「そこまでは究《きわ》めてみませんでしたが、斎藤先生の門下であり、流儀が神道無念流であることは、争われません」
「稽古はどうですか、業《わざ》は」
「それは確かなものです、練兵館の仕込みですから、隙間《すきま》はありません」
「して、人間はどうです、人物は……」
「さあ……」
と兵馬が腕を組みました。
 正直のところ人物は感心しない。感心しないけれども、兵馬として、それを露骨に言ってしまいたくないような気がする。かりにも、同行の友人のアラを言うことが忍びないような気がする。そうかといって、人格清明、志気高邁《しきこうまい》と、そらぞらしいおてんたらを並べるわけにもゆかない。それを村田が引受けて、
「あまりよくないでしょう」
「そういえばそうです、惜しいものですね、あれだけの腕を持ちながら」
「仏頂寺弥助と仏生寺弥助とが、どれほど違うか知りませんが、その仏生寺殿の方は練兵館の方から勇士組として選抜されて、長州へやられた時分に、京都でよからぬ行いがあったということで、同志の者から、殺されたということを聞いております」
「ははあ、それほどの手練を、誰が、どうして殺しましたかしら」
「京都で悪事をやった勇士組のうちの三人は、この仏生寺弥助と、高部弥三雄というのと、三戸谷一馬というのと三人でした。本来、この勇士組というのが、毛利の若殿の頼みを受けて、斎藤篤信斎が、自分の手から壮士を集めて送ったもので、いずれも錚々《そうそう》たる腕利《うでき》きであり、下関《しものせき》砲撃の時などは大いに働いたものですが、以上の三人が悪い事をして、体面上容赦がならぬというところから、同志の者で斬って捨てようとしたが、相手が尋常でないから用心して、ことに仏生寺弥助は、遊女屋へ誘って行って、酒を飲まして、だまして縛ったということを聞きました。それを高部と、三戸谷が知って、鴨川原へ逃げ出したところを、北村北辰斎が追いかけて、川原で斬合ったが、なにしろ相手が相手ですから、北辰斎も不覚を取って、小手を斬られて太刀《たち》を取落したが、それでも片手で脇差を抜いて受留め受留めして、すでに危ういところへ、篤信斎先生の一子新太郎殿がかけつけて、二人をしとめたということでした」
「ははあ、それは初めて承りました」
「普通の浪士の斬合いと違って、有名な剣術者の真剣勝負でしたから、これは後学のために見ておきたいと、かけつけた時は、もうすでに事が済んでいたので残念でした」
「そうでしたか。して、高部と三戸谷の両人はその場で斬られ、酒に酔わされて縛られた仏生寺弥助殿はどうなりました」
「三人ともに討首《うちくび》になったということは聞きましたが、その後のことは聞きません、まさかここに来ている仏頂寺殿が、その仏生寺殿の生れかわりであろうとも思われませんが……」
「なるほど」
 兵馬が、またも考え込んだ時、
「さあ、火がおこりました」
 久助が火をハサんだので、お雪がまだ以前のところに立っているのを知りました。

         十三

 お雪ちゃんのこのごろの仕事は、社会奉仕といえば一つの社会奉仕でしょう。
 ほかに女手の一つもない大きな宿屋の中のことですから、男で気のつかないことは、何でも自分の手でしてやらねばならぬという責任でもあるかのように、何かと気を配らずにはおられません。
 そこで、自分の炬燵《こたつ》に火のない時は、他の部屋のそれも同じように心配して、冬籠《ふゆごも》りの空気を、いくらかでも暖かいものにしてやりたいというような心づくしは、持って生れたこの人の親切気ですから、どうすることもできません。
 今も、十能の中に、かんかんとおこった炭火をたくさんに盛って、それを後生大事《ごしょうだいじ》に抱えながら、二階の梯子《はしご》を上りにかかりました。そうして二階のいちばん手近いところの部屋、つまり宇津木兵馬の座敷のところへ来て、ちょっとしなをして、様子を見た上で、誰もいないと知りつつ中へ入って行きました。
 今では、誰もいないどの座敷へも、相当の遠慮無しに出入りすることが、自分の特権のようにもなっていると思います。つまり、知らず識《し》らず、この宿屋全体の主婦であるという実際と、気位を、いつのまにか、事情がお雪に与えてしまったようなものです。
 兵馬の留守の間に、お雪はよく炭を生け替えて、新しい炭火をさしこみ、灰をならしておいて、それから余った炭を、火のしの上の炭火に加えて、そうして、暫く、うっとりとわが物のように、その炬燵に手を差しこんで考え込んでいました。
 そうする
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